「エターナルズ」鑑賞

思ったことを雑多に書いていく。以降はネタバレ注意。

  • 個人的に原作コミックにあまり思い入れはない。ジャック・カービーの作品としてもキャリア的にどちらかといえば後期のもので、60年代〜70年代前半に狂ったようなペースで名作を創出していたのに比べれば少しトーンダウンした作品、という印象があるかな。
  • いきなり話はずれるが、ジャック・カービーの神話というか神に対するアプローチは非常に興味深いものがあって、「ソー」は北欧神話のアスガルドの神々をSFテイストを加えて描き、それらの神々にとって代わる新しい神々としてユダヤ教の影響が色濃い「ニュー・ゴッズ」をDCで作った。そのあとインカ文明のアートの影響を受けつつ「エターナルズ」を創作した、ということになるのかな。キャリアを通じて神とは何か、を問いただした作家であった。
  • 原作の「エターナルズ」の重要なキャラクターはやはり、人類を裁くために地球にやってきた巨大な創造主ことセレスティアルズだが、映画版では話をもっと人気的なスケールにするためかセレスティアルズは1〜2体しか登場せず、エターナルズにより焦点をあてた内容になっている。まあ超巨人が世界中を跋扈するような話だと、ほかのMCU映画との兼ね合いが悪いのでしょうな。
  • 主人公となるエターナルズの性別とかオリジン話も原作からいろいろ改変されてて、まあそんなものでしょう。原作の「心正しいエターナルズは美男美女ばかりで、邪なデヴィアンツは醜い欠陥品ども」という描写がなんか優生思想のようで好きにはなれなかったのだけど、映画では幸か不幸か心を持たない獣のようになっていて、安心して叩ける悪役になっておりました。いかにもCG、というキャラクターデザインは好きじゃないけどね。
  • 予告を観たときは多くの登場人物がいろんなアクセントでなんか気になったけど、実際に本編を観たらさほどではなかった。というかマ・ドンソク(ギルガメシュ)は英語上手だね!それに対してイカリス役のリチャード・マッデンが終始スコットランド訛りで話すのだけは気になって仕方なく。何千年も一緒にいたという人たちなのに、なぜ一人だけ違う訛りで話すのだろう。

ここからは技術的な話になるが、監督のクロエ・ジャオって、アカデミー賞を獲った前作「ノマドランド」から察するに(「ザ・ライダー」は未見)、自然光での撮影が好きで(特にマジックアワー時)、小人数の親密な会話シーンを得意とする監督である。それは冒頭、エターナルズが登場するのも陽の傾いた荒野であることから明らかだろう。しかし今作は大人数の出てくるアクション大作であって、監督の得意とする分野とは正反対のものではないのか。戦闘シーンも夜や暗い森のなかで行われていて、あまり照明が当てられてないから暗くて展開がよく分からないの。最後も舞台は無人島なのにわざわざ洞窟に入ったりして、明るいところで戦え!と思ってしまったよ。グリーンスクリーンを嫌ってロケーション撮影を行ったらしいが、それにCGの怪物とかエフェクト加えてたらあまり意味がないのでは。

キャストにしてもマ・ドンソクに加えてジェマ・チェンやクメール・ナンジアーニ、バリー・キオーガンといった多様な人々をハリウッド大作で揃えたのはすごいと思うし、それぞれが優れた役者なのだけど、皆が揃ったときのやりとりがなんかよそよそしいというか、ケミストリーが感じられなかったのは俺だけ?致命的なのがアンジェリーナ・ジョリーの役で、確かに精神的に不安定で近寄りがたい設定だとはいえ、明らかに他の役者と噛み合ってなくて、最後まで「場違いの映画に出た大女優」という雰囲気だったのが残念。サルマ・ハエックはもっと噛み合ってたのに。

あとはストーリーも、セレスティアルをアレすることで結果的にああなるのでは、というジレンマが結局解消されなかったし、冒頭で「私はウソを見抜ける」と豪語していた人が仲間のウソを見抜けなかったりと、なんかモヤモヤするものが残る内容でありました。

聞いた話ではクロエ・ジャオってマーベルのファンで自らこの作品をピッチしたそうだし、決してマーベル作品に不向きということではないと思うのですよね。その一方でこの作品はクロエ・ジャオが監督する必要はなかったのでは?と思わずにはいられなかった。マーティン・キャンベルが「グリーン・ランタン」を監督した際のミスマッチ感のようなものか。クレジット後の映像も「あんなキャラ出すの?」という感じだったし、「エンドゲーム」後のマーベル映画はちょっと方向性が不明瞭な印象を蹴るけど、いずれどこかで気を引き締めて、セテスティアルズが勢揃いするような大クライマックスが展開されることを期待します。