「イングロリアス・バスターズ」鑑賞

最近よく映画における「話の落とし方」というか「クリーシェの必要性」などについて考えることがありまして、要するに手垢がついたような使い古されたストーリーテリングがあったとしても、それは観客が好んだからこそ使い古されてるわけで、そういう王道のパターンに話を持っていくというのは、変に奇をてらった展開を持ち込む以上に重要かつ技巧が試されることなのではないかなあと。音楽でもコード展開は無数にあるものの、人の耳に快いものは結局限られているのに似ているかもしれない。

そして「イングロリアス・バスターズ」を観ててたらそういうことを連想してしまったんだが、この映画は話の展開にどうも引っかかるところがあって十分に楽しむことが出来なかったのでありますよ。具体的にどう引っかかったのかというと、ネタバレになるから白文字で書かせてもらうが:

・親の仇は子が討たなければいけない。
・最後にドンパチがある場合、主人公はそこで活躍しなければいけない。あるいは少なくとも主人公はその場にいないといけない。
・敵役が非道な方法で殺される場合、その敵役はその死に方に見合うだけの悪人として描かれなければならない。職務に忠実な軍人として描かれ、観客の共感を得るようなことはあってはならない。

というような「お約束事」がみんな破かれていたので、どうも違和感を感じずにはいられなかったのだよ。かといって悪い意味で常軌を逸した映画かというと必ずしもそうではなくて、個々のシーンの演出などはきちんとできているから評価に困ってしまう。特に地下の酒場のシーンなんかはスリリングで非常に良い出来なんだが、あとでよくよく考えてみると、あそこまで時間を割くほど重要なシーンだったのかは疑問が残ってしまう。この映画はなんかそういう変な感触がいろいろな点で残る作品であった。それと実際にタランティーノがどこまで戦前のドイツ映画を偏愛してるのか知らないけど、パルプ映画やヤクザ映画のときと違って、クラシック映画の蘊蓄が語られるあたりにはどうもスノビズム的なものを感じてしまったよ。

まあ個人的に昔からタランティーノの作品は、好きとか嫌いとか以前にどうも感覚的に受け付けないところが多々あって、それはティム・バートンの作品もそうなんだけど、俺は彼らの趣味についてけない客層の1人になるのかな。俺の前の席では外人連れたおねーちゃんがやけにオーバーなリアクションで手を叩いて笑ってたりしたけど、ああいう感じで映画を楽しめなかったのがなんか残念。