「HEAVY ROTATION」読了」

ヴァーティゴ・コミックスで活躍していた編集者のシェリー・ボンドがKickstarterで出資を募っていた単発コミック。彼女が在籍していたNY州イサカの大学にあった学生ラジオ局を中心に、80年代のカレッジ・ラジオ文化の思い出がいろいろ詰まった35ページほどの作品。コミックとエッセイが半々の内容になっていて、夫君のフィリップ・ボンド(上のカバー画も担当)が関わっていたイギリスのカルチャー雑誌DEADLINE(タンク・ガールで有名なやつね)に体裁は近いかな。

アメリカのカレッジ・ラジオというとおれ日本のFM情報誌(そういうものがあったのよ)でその存在を知りまして、ビルボード全米チャートなどとは全く別にR.E.M.とかウォール・オブ・ヴードゥー(知ってる?)といったバンドが人気を博していて、それが90年代のオルタネイティヴ・ロックのブームへの土壌を作っていたと認識している。80年代半ばから後半がカレッジ・ラジオ文化の最盛期かなと思ってたけど、冒頭にある年表によるともう少し前から盛り上がりがあったみたい。これに合わせて公開されてるSPOTIFYの関連曲リストを見ると、意外とイギリスの80年代初期のバンドの曲がフィーチャーされていて、これはこうしたバンドのアルバムがアメリカでは発売が何年も遅かったことが影響してるのかもしれない。今じゃ全世界同時配信開始の時代だものねぇ。

カレッジ・ラジオが経済的にどのように運営されてたのかよく分からんのですが、DJたちはローテーションを組んで雪のなか深夜や早朝にスタジオにやってきて、視聴者のリクエストをかけたりミュージシャンへのインタビューを行ったさまがいろいろ説明されてます。自分の好きな曲ばかりをかけられた訳ではなく、曲の人気度によってステッカーで色分けがされて、この曲をかけるのは週に何回まで、とか細かい指定がされていたそうな。カミソリを使ったオープンリールのテープの編集のやり方とか、おそらく今後の人生で全く使うことのないテクニックなども説明されてるが、ノスタルジア全開で面白いですよ。

エッセイはイサカ大学の元スタッフやミュージシャンの思い出話がいろいろ語られていて、ビル・シェンキビッチやジル・トンプソンなどのイラストがついている。「マッドマン」のマイケル・オールレッドがマンガ家になる前はDJでTVレポーターだったとは知らなかったよ。ミュージシャンのエッセイだとイギリスはリーズのCUDのベーシストなどがカレッジ・ラジオの思い出を書いてまして、CUDって知ってる?XTCのデイブ・グレゴリーがアルバムをプロデュースしてたんだよ。あまり売れなかったけど。あとジ・アラームのインタビューも載ってるが、おれあのバンド嫌い。

エッセイが多いので、コミックばかりを期待してると肩透かしをくらうかもしれない。またカレッジ・ラジオ文化を懐かしめるのって40代後半〜50代のアメリカ人くらいなもので、そういう意味では非常に対象の狭いニッチな本ではありますが、自分の好きなことについて書いて出資してもらうという点ではクラウドファンディングに最適なものなんだろうな。電子版が3ドルでもらえたので十分お得でした。

リック・ウェイクマンの受賞スピーチ


「ロックの殿堂(Rock and Roll Hall of Fame)」の受賞式典が昨夜ニューヨークで開催されたそうな。今回の受賞者はELOやイエスやジャーニーなど。ロックの殿堂って大衆受けする連中しか選出されないし、年寄りの同窓会という印象が強くてそれってロックじゃないよね、と個人的には思うのです。ましてやイエスみたいなプログレっておれあまり聴かないし、特にキーボードのリック・ウェイクマンってふんぞり返った大御所みたいなイメージがあって好きではなかったのですが、彼の受賞スピーチがなぜか下ネタ満載のスタンダップコメディのごとき内容になっていて大変面白かったので、例によって英語の勉強として訳してみる。原文はこちら

このマイクもっと上にあがる?俺の人生そのまんまだな(笑い)。まあいいや。この受賞式に来ることができて幸せな理由は2つあります。1つはイエスのメンバーとしてロックの殿堂に入れてもらったことですね。もう1つは、言うべきではないかもしれませんが、この建物から半マイルもいかない場所で、私は意義のある性経験を初めてしたということです(笑い)。いやいや、そんなに良くなかったかな。

スティーブ・ハウが妻に感謝の言葉を述べたように、私も自分の妻に感謝します。残念ながら彼女はこの場にいません。今朝彼女のもとを離れたとき、彼女は昏睡状態でした。セックスはいつも通りでしたが洗濯物がたまってましたね。

イエスのメンバーに加えて、私は自分に大きな影響を与えてくれた父親に感謝します。彼も芸能界で働いてましてね。うちの家族はとても貧しかったんですが、彼はエルビスの物真似をやってました。1947年にはまったく需要がなかったのですが(笑い)。彼は多くのことを教えてくれました。私を座らせて、「いいか、安くて汚いストリップ小屋なんかに行くなよ。目にしたくもないものを見ることになるぞ」と教えてくれたので、もちろん私はストリップ小屋に行きました。そしたら親父がいるのを目にしたのです(笑い)。

イエスを招いてくれて、ロックの殿堂には大変感謝しています。実のところ(今日スピーチをする)3番目のバンドとなったのは幸運でした。年をとると前立腺が肥大してトイレが近くなってね。真面目な話、前立腺の検査がいかに重要かをお伝えしたいです。私も月曜日にやったばかりでね、女性たちは知らないでしょうがしんどいものですよ。胎児の姿勢になってね、ゴムの手袋をつける音がして、ホリネズミが体内を駆け上ってる感じがします。検査中に医者が言うんですよ。「恥ずかしがらなくていいですよウェイクマンさん、この状況で勃起するのは普通ですから」って。「でも先生、私は勃起してないですよ」と言ったら「知ってます。私がしてるんです」だって。

どうもありがとう!

んー日本語に訳すとパンチ力が弱まるかな。映像はこちら。後ろに誰かの娘らしい少女がいるんだがこんな下ネタ聞かせていいのか?

マッドネスのライブ


こないだレジデンツに行ったばかりですが、マッドネス来日と聞けば行かずにはおるまいと思って。80年代初頭にイギリスに住んでたときからのファンなのです。当時はPVの面白いコミックバンド的な存在だったけど、演奏は手堅いし歌詞も意外と真面目なバンドなのですよ。

場所は六本木のEXシアター。開演前のドリンク待ちの行列がやたら長いことと、ハイハットなどの高音が割れてるような印象を受けたかな。メンバーはいわゆる黄金期メンバー(チャズ・スマッシュだけ不在)とパーカッションにホーン3人。ドラマーがやけに若いように見えたけどオリジナルメンバーだったんですね。ボーカルのサッグスとサックスのリー・トンプソンにスポットライトが当たってる感じで、リーダー(?)のマイク・バーソンは後ろで黙々とキーボードを弾いていた。ベースのマーク・ベッドフォードも童顔だったけどさすがに老けたのう。

初っ端から新アルバムの曲をやったけど、大体3分の2くらいは再結成前の曲だったかな?「House of Fun」「It Must Be Love」「Embarrassment」などなど、ヒット曲のオンパレード。久しぶりに演奏したという「Cardiac Arrest」もあったし、「Wings of a Dove」も女性コーラス抜きだけど結構良かった。やはり客が盛り上がるのは「Our House」あたりで、途中の「あ〜あ〜あ〜あ〜」というコーラスも大合唱。マッドネスと聞けば日本人の多くが連想するであろう「In The City」(CMソングだったのよ)は意外にも演奏せず。おれは「Bed and Breakfast Man」が好きなんだけどあれも演奏なかったな。

最後は「Madness」と「Night Boat To Cairo」で締め。若い頃は懐メロだらけのライブってなんか軽蔑してたけど、年とってくるとそうも言ってらんないすね。30年以上ファンのバンドのライブが拝めて満足でございました。

レジデンツのライブ


32年ぶりの来日、と聞けば行かずにはいられまい。場所がブルーノートというハイソな場所だったせいか、それとも50年くらい(!)活動してるバンドのせいか、年配の客が多かったような。

目玉とタキシードの格好という印象が強くて、来日のチラシなどでもそのイメージが使われているものの、彼らは何度もイメチェンを繰り返しておりまして、今度の来日にあわせて出してきたのが上の、牛とペスト医師みたいな格好。どういうコンセプトがあるのかわからないし、模索するだけ野暮でしょう。当然こんな格好では歌えないし楽器も見れないということで、実際のステージ上ではもっと簡略化された衣装でした:

ミクラスみたいなツノを持った牛がボーカルで、ペスト医師はギターとキーボードとドラムという構成。衣装の端っこから覗ける手や顔の一部を見るあたり、そんなに年寄りそうには見えなかったので、当然ながらオリジナルメンバーが演奏しているとか、そういうものではないのでしょう。ギタリストが他のメンバーよりも背が高くて、そんなに身長差があるバンドだとは知らなかった。まあレジデンツを名乗ってれば中の人はどうでもいいんだよ!ということで。

肝心の演奏はステージ左の風船上のスクリーンに、相変わらずのヘタウマなCGの人物が曲の合間に投影され、カウボーイとかバレリーナの夢を語るという演出がされていた。多人数の夢の話という点では「ジンジャーブレッド・マン」に似てたような?新譜からの曲が多かったのか、「マンズ・マンズ・ワールド」以外は知ってる曲が無かったぞ。「ワームウッド」の曲とかもやってたようだけど。ボーカルは相変わらずのダミ声シャウト系で、キーボードとエレクトリックドラムでさまざな音を出している感じ。ドラマーがコーラスもやってたはず。

まあレジデンツのライブに何を期待していたのか分からないので、こういうものだったとしか言いようがないのですが、いかんせんステージが狭いためにパフォーマンスが限られてるような印象は受けました。あれ後ろの垂れ幕外せばもっとステージ広いよね?2日目も3日目も行く予定なので、初日とどう違った演奏をするのか見てきます。

ボブ・ディランのノーベル賞スピーチ

翻訳の勉強も兼ねて、ボブ・ディランのノーベル賞受賞のスピーチ(本人は式典に欠席)を訳してみたのだよ。原文はこちら。コピーライトは© The Nobel Foundation 2016. 12月10日から2週間のあいだはどんな言語でも事前承諾なしで掲載してオッケー、みたいなことが書いてあるので著作権的にもクリアされてると思います。

(2016年12月10日、スウェーデンの駐米大使アジータ・ラジによる、ボブ・ディランからのノーベル賞授賞式でのスピーチ。)

皆様こんばんは。スウェーデン・アカデミーの会員各位および会場にいらっしゃる名高いお客様たちに、心からのご挨拶をさせていただきます。

私自身が式典に出席することができず申し訳ありません。しかし私の気持ちは皆様とともにあり、このような栄誉ある賞を受け取ることができたことを光栄に思っています。ノーベル文学賞を受け取れるなんて、私はまったく予想も想像もしていませんでした。私は若い頃から、この賞を得た作家たちの作品を読み、多くを学びました。キップリングやショー、トーマス・マン、パール・バック、アルベール・カミユ、ヘミングウェイなど。こうした文学会の巨人たちの作品は学校で教えられ、世界中の図書館に置かれ、尊敬をもって語られ、常に深い印象を与えてきました。こうした人たちのリストに私が加わるということは言葉に表せません。

これらの作家がノーベル賞受賞を意識していたのかどうかはわかりませんが、世界中で本や詩や演劇を書いている人なら誰しも、そのような夢を密かに抱いているに違いありません。あまりにも密かで、本人が気づかないほどにね。

もし誰かが私に対して、ノーベル賞を受賞する微かなチャンスがあるよ、と言ったとしたら、それは自分が月面に立つのと同じくらいの確率だと私は考えたでしょう。実のところ私が生まれてから数年のあいだ、文学賞に値すると見なされた人は世界のどこにもいなかったわけで(訳注:1940年から43年まで文学賞の受賞者はいなかった)、私はとても数少ない人々のあいだに迎えられたという実感があります。

受賞の驚くべき知らせを受け取ったとき私はツアー中でして、知らせを理解するのに数分かかりました。そして私は文学の巨匠、ウィリアム・シェークスピアに思いを馳せました。彼は自分のことを劇作家だと考え、文学を執筆しているなんて思ってもいなかったでしょう。彼の言葉は舞台向けであり、読まれるのでなく話されるものだとして。彼が『ハムレット』を執筆しているとき、多くの異なることを考えていたに違いありません。「この役に適した役者は誰だ?」「どのように演出されるべきか?」「話の舞台はデンマークでいいのか?」などとね。創造性と熱意は常に彼の念頭にあったでしょうが、同時にもっと凡庸な課題に対応する必要もありました。「予算はあるのか?」「パトロンにいい席は確保されているか?」「頭蓋骨はどこで入手すればいい?」など。シェークスピアが最も考えていなかったことは「これは文学か?」でしょう。

10代のときに歌を書きはじめ、そこそこ有名になったときでも、私の歌に対する願望はたかがしれたものでした。喫茶店やバーで歌を聴いてもらい、もしかしたらカーネギーホールやロンドン・パラディウムで後には演奏できるかもと。もし本当に大きな夢を見ていたら、レコードを作り、自分の歌をラジオで聴くことができるかもしれないといった程度です。それが私の考えていた大きな賞でした。レコードを作り、自分の歌がラジオで流れることはより多くの人々に聴いてもらえるわけであり、自分が始めたことをこの先もずっと続けていけることを意味していたのです。

そして私は自分がはじめたことを長年続けてきました。レコードを何十枚も作り、世界中で何千ものコンサートを行ってきました。しかし私が行うことの殆どすべての中心には私の歌があります。私の歌は数多の文化において多くの人々に受け入れられたようで、そのことに私は感謝しています。

しかし1つ言いたいのは、パフォーマーとして私は5万人の観客と50人の観客の前で演奏したことがありますが、50人に対して演奏するほうが難しいということです。5万人の観客は1つの人格を持っていますが、50人はそうではありません。それぞれが個別の性格を持ち、独自の世界を持っています。彼らの方が物事を明確にとらえることができるのです。あなた方の正直さと、それがあなた方の才能の深さに結びついていることは疑うべきもありません。ノーベル委員会がかくも少ない人数で成り立っていることを私は十分に認識しています。

とはいえ、シェークスピアのごとく、私も自分の創造性の追求と、人生の凡庸な物事への対応にいつも追われています。「この歌に最適なミュージシャンは誰か?」「正しいスタジオでレコーディングしているのか?」「この歌のキーは合っているのか?」などね。400年たっても変わらないことは変わらないのです。今まで私は一度も「歌は文学なのか?」なんて考えたことはありません。

そしてこの質問について考えてくださり、最終的に素晴らしい回答を与えてくれたスウェーデン・アカデミーに心から感謝させていただきます。
皆様に幸せがあることを。

ボブ・ディラン