「シン・シティ」に見るコミックの映画化技法

先週の金曜日に封切られた「シン・シティ」が大方の予想通り興行成績1位に輝いたようで、まずはめでたしめでたし。もっとも興行成績で作品の良し悪しが決まるものではないんだけど。約2800万ドルという成績は決して記録的なものではないけど、R指定作品だし製作費が4000万ドル程度(さすがロドリゲス!)であるらしいことを考慮すれば上出来の結果かと。これで続編製作が決定か?

一般大衆の受けも上々らしく、IMDbでは早くも歴代作品のトップ112位に食い込んでいた。ただし批評家の受けはそこまで良くはないようで、「内容よりもスタイルに重点を置きすぎてる」とか「映画ではなくコミックを見てるようだ」といった批判も出ているようだ。まあコミックに徹底的に忠実に作るのが監督の目的だったので、これらの意見は褒め言葉としてとらえることも可能だろうけど。ただコミックに忠実になるあまり、映画化への脚色が十分に出来てないと思われる部分があるのも事実である。そこでコミックの映画化とは何ぞや、ということについて少し書いてみる。(注:以下に少しネタバレあり)

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上記の画像は「THE BIG FAT KILL」でジャッキー・ボーイの生首が突然話しだすシーンのもの。コミックではページをめくったとたんに彼が目を見開いて喋りだし、それをドワイトが「お前は幻覚にすぎない。黙ってろ」とクールに対応する非常にカッコいい光景を1コマで描ききっているわけである。これを映像化しようとすると、どうしても1コマ以上の時間や視点の動きが必要となってくるわけで、「生首が話しだす」→「ドワイトが反応する」→「ドワイトが話す」という流れに持っていかざるを得ないと思う(実際、今回の映画もそうだった)。そうなるといかにコミックに忠実になろうとしても、越えることができないメディアの違いという壁があるわけで、あとは映画製作者の脚色の手腕にかかってくるのではないか。

それと今回の映画で気になったのがナレーションの多用で、これもまた原作通りなのだけど、コミックは文章量が多くなっても読み手が任意のスピードで読むことが可能だから比較的多くの情報を処理できるのに対し、映画はまず映像が製作者の任意のスピードで観客の目に飛び込んでくるわけで、それに加えてナレーションがガンガン流れるのは見てる側にとってキツいものがあると思う。映画はまず何よりも映像/視覚のメディアだな、と実感した次第です。

もちろんこれはロドリゲス監督に脚色の技能がない、なんて言ってるわけではない。彼は非常にうまく原作を映像化してるのだけど、あまりにもスタイルに忠実であるがためにコミックと映像の壁が明確に現れてしまったわけだ。コミックの正しい映画化への道は厳しい。

とりあえず原作をじっくり読み直してからまた観てきます。

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