「スーパー8」鑑賞


俺がJ・J・エイブラムスの作品をどうしても好きになれない理由として、彼自身はすごく才能があってアイデアも豊富な人なんだろうけど、それが災いしてあまりにも手堅くきちんとした作品を作ってしまう点があって、要するにちょっと出来の悪いところがあったとしても「俺はこの映画を撮りたかったんだ!」というような情熱というか才気の爆発みたいなものが感じられないんだよな。そんな意味ではこの「スーパー8」はエイブラムスが撮るべきして撮った作品かと。だって作品の目的が「いかにスピルバーグ的な映画を撮れるか」なわけだから、スピルバーグの作品をきちんと勉強して律儀にオマージュを捧げれば立派なものは作れるだろうけど、どうしてもそれは「よく出来た模造品」であり、本物ではないという感が拭えなかったよ。

もちろん以前にもスピルバーグ的な映画を作った監督はいたわけだが、例えばジョー・ダンテ(あとたぶんゼメキス)なんかは自身の作家性が滲みだしていたのに対し、この作品はスピルバーグのスタイルを追うことだけに終始していたような(尤もエイブラムスの作家性が何なのか俺には分からないのだが)。よって結局のところ「どこかで観たことあるような映画」になってしまい、あれだけストーリーが謎にされた作品でありながら、先の展開が読めるものになってしまっていた気がする。そしてスピルバーグというのは模倣では絶対に超えることの出来ない天才であるわけで、おかげでスピルバーグとエイブラムスの力量の差を実感させられる内容になっていた。父親との屈折した関係や、女の子への童貞まるだしの憧れなんてのはスピルバーグならもっと巧く描けたはず。ここらへんはエイブラムスが崩壊家庭で育ってない(らしい)からなのかな。

とはいえ最初に書いたように相変わらず手堅いつくりの作品であることは間違いないわけで、観ていて楽しめないというわけではない。役者はエル・ファニングがずいぶん大きくなったな、という感じ。クリーチャーはCGなので例によって重量感がないのがマイナス点。結局のところオマージュと模倣のバランスが微妙な作品といったところですかね’。70〜80年代のスピルバーグを観てない人や世代などはまた違った感想を抱くのではないかな。

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