「マネーボール」の作者のスピーチ

「マネーボール」を書いたマイケル・ルイスが今年プリンストン大学で行ったスピーチを訳してみた。原文はこちら。このスピーチのことはビル・マーの番組で言及されてて知ったのだが、親のあとを継いだ政治家や自分の成功を当然だと考える実業家が多い世の中において、実に素晴らしいことを言っていると思うのです。

「幸運のクッキーを食べないで」

ありがとう、ティルマン総長。理事や後援会の方々、父兄の皆様。そして今年度の卒業生の皆さん。お互いを讃え合いましょう。次に皆が黒い服を着て教会に集まる時は、喜び合えるような雰囲気ではないでしょうから。この時を楽しみなさい。

30年前、私は皆さんが座っているところにいました。年配の方が人生の経験について語るのを聞かされたのでしょうが、内容はまったく憶えていません。誰がスピーチをしたのかも記憶に残っていません。しかし卒業式のことは明確に憶えています。卒業式では期待と開放感を得られるかもしれないと伝えられ、もしかしたら皆さんはそう感じているかもしれませんが、私はそうではありませんでした。私は憤慨していました。自分の貴重な4年間をここで費やしたというのに、その返礼として私はただ追い出されようとしていたのです。

その時点で私に確実なことは1つだけでした:自分は世間にとって何の経済的価値も無いということです。まず私の専攻は美術史でした。当時でもこれは無謀な行為だと思われていました。皆さんに比べて、私は商業社会に対する準備がまるで出来ていなかったのです。それでも私は金持ちで有名になりました。いちおうね。私に何が起きたのかをこれから手短に説明します。これからキャリアを築く皆さんに、それがいかに謎めいたものであるかを理解して欲しいのです。

私は書いたものがどこかで発行されることもないまま、プリンストン大学を卒業しました。大学の新聞やどこかに執筆することもありませんでした。しかし大学で美術史を学んでいる際に、私はものを書きたいという気になっていたのです。これは論文を書いている際にそのような気持ちになりました。私の論文の指導者は非常に才能のある考古学者のウィリアム・チャイルズ教授で、論文ではイタリアの彫刻家ドナテロがいかにギリシャとローマの彫刻の影響を受けていたかを論じるものでした。これはいま話していることとは別に関係ないのですが、誰かに伝えたかったので。チャイルズ教授がその論文について実際どう考えていたのは分かりませんが、彼は私にやる気を与えてくれました。没頭したといっても良いでしょう。私が論文を提出したとき、私は残りの人生で何をしたいかが分かっていました。論文を書くことです。あるいは本を書くことでした。

そして私は論文の審査会に行きました。ここから近くのマコーミック・ホールでした。私は耳を傾け、私の論文がいかに素晴らしいかをチャイルズ教授が口にするのを待ちました。彼はそんなことを言いませんでした。そして45分ほど経ったあと、私はついに尋ねました。「私の論文についてどう思いましたか?」

「こういうことだ」彼は言いました。「これで生計を立てようと思うな。」

私はこれに必ずしも従いませんでした。そして目的のない人たちがするように、私は大学院へ進むことにしました。夜に執筆作業を行いましたが、何について書けばいいのかさっぱり分からなかったので何の意味もありませんでした。そんなある日、私はある夕食会に招かれ、ウォール街の投資銀行であるソロモン・ブラザーズの大物の奥さんの横の席に着くことになりました。それから彼女は私に仕事を与えるよう夫に要請しましたが、私はソロモン・ブラザーズについて殆ど何も知りませんでした。しかしそのときのソロモン・ブラザーズは、ウォール街が皆さんの愛するいまの状態になるまでの、変化の過程の最中にいたのです。私がそこで働きはじめたとき、殆ど無作為に、増大する狂騒を目にするのに最適な仕事を私はあてがわれました。彼らは私をデリバティブの専門家にしたてあげたのです。そして1年半後、私はプロの投資家にデリバティブのアドバイスを与え、会社は私に何十万ドルもの給料を支払っていました。

これに触発され、私はソロモン・ブラザースについて執筆をしようと考えました。ウォール街はあまりにも狂騒的になり、プリンストン大学を卒業したばかりの、お金について何も知らない若者が財テクの専門家のふりをすることに対して大金を支払っていたのです。私はこうして次の論文のテーマを見つけました。

私は父親に電話し、何億ドルもの給料が約束されている職を辞め、前金4万ドルで本を執筆することにしたと伝えました。電話の反対側では長い沈黙があり、やがて彼は「考え直したほうがいいんじゃないかな」と言いました。

「なぜだい?」

「ソロモン・ブラザースで10年働き、貯金をためて、それから本を書けばいい」と父は言いました。

そのような再考をする必要はありませんでした。知性の情熱がどんなものか、ここプリンストンで私は経験しており、それをまた感じ取りたかったのです。私は26歳でしたが、もし10年待ったら、そのような情熱は失せてしまったでしょう。その感覚を忘れ去っていたに違いありません。

そうして私が書いた本は「ライアーズ・ポーカー」という題名で、100万冊を売り上げました。そのとき私は28歳で、ちょっとした名声と財産、そして人生の新たな転機を手にしたのです。突然人々は私のことを、生まれつきの作家だと讃えてくれましたが、それはバカげたことでした。私自身でさえも、運にまつわる正しい事実があることを理解していました。夕食でソロモン・ブラザースに関係した女性の横に座る確率はどれだけ低いのか?ウォール街の会社に就職し、時代を象徴する出来事について執筆するのに最良の場所にいたことは?あるいは私を勘当せず、ただため息をついて「好きなことをやりなさい」と言ってくれた両親がいた確率は?プリンストンの美術史の教師によって、やる気を与えられたことは?あるいはそもそもプリンストン大学に入れたことは?

これはただの偽りの謙遜ではありません。意味のある偽りの謙遜です。私の経験から言えることは、成功は合理化されてしまうということです。成功は運に基づいているという話を、人は聞きたがりません。成功した人々は特にそうです。人が年を取り、成功を重ねていくとき、彼らはその成功は必然的なものだったと思い込みます。彼らの人生に偶然が関わったことを認めたくないのです。これには理由があります:世間もまた、成功に運が関わっているとは思いたくないのです。

私はこのことについて、「マネーボール」という本を書きました。いちおう野球についての本でしたが、実際は別のことに関する本でした。プロ野球の世界には金持ちのチームと貧乏なチームがあり、彼らは非常に異なる額を選手に費やします。私が本を書いたとき、最も金持ちのチームだったニューヨーク・ヤンキーズは25人の選手に1億2000万ドルもの金額を費やしていました。一方で最も貧しいオークランド・アスレチックスがかけた金額は3000万ドルほどです。しかしアスレチックスはヤンキーズと同じくらいの勝ち星をあげ、他の金持ちチーム以上の勝率を誇っていました。

これはあり得ないことでした。理論上は金持ちのチームが最高の選手たちを揃え、すべての試合に勝利するはずだったのです。しかしアスレチックスはあることを発見していました:最高の選手が誰であるかを、金持ちのチームは分かっていなかったのです。選手たちは誤った評価をされており、その最大の理由は、野球における運の役割に専門家たちが気付かなかったことでした。他の選手に依存するはずのパフォーマンスによって、選手たちは評価されていたのです。ピッチャーが試合に勝つこととか、打者がランナーを本塁に帰すこととか。ボールが地面のどこに落下したとか、選手自身の能力とは関係のないところの成績において、彼らは評価されたり批判されていたのです。

野球は忘れましょう。スポーツも忘れましょう。企業の重役たちは年に何百万ドルもの給料を受け取っています。彼らのやっていることは、同じ業界で他の人たちが何年も行ってきたことと全く同じで変わりありません。何百人もの人々の前で、彼らの仕事を随時チェックされながら。彼らのすべての行動は統計としてまとめられていました。それでも彼らは誤った評価をされました。なぜなら多くの人々が彼らの運を無視していたからです。

これは我々の目の前で100年も続いていましたが、誰も気づきませんでした。貧乏なチームがあまりにも成功し、皆がそれを無視するわけにいかなくなるまでは。そこで問題が出てきます。何百万ドルもの給料を得ている選手が誤った評価をされてるのなら、誰が正しい評価を受けているといえるのでしょう?真に実力主義であるはずのプロ・スポーツの世界において優秀な選手と幸運な選手の区別がつかないのなら、誰がつけられるでしょう?

「マネーボール」の物語には実践的な結論があります。より良いデータを使えば、より優れた価値を見いだせるということです。開拓できる市場の非効率性は常に存在している、といったようなことです。しかしこの本には、さらに広義でさほど実践的ではないメッセージも込められています:人生の成り行きに騙されるな、ということです。人生の成り行きは完全にランダムというわけではありませんが、運が多分に焼き込まれているのです。そして何よりも、もし成功を手にしたのならば、あなたには幸運があったことを認識しなさい。そして幸運には義務がついてきます。あなたは借りがあるのです。神様だけにではなく、不運な人たちにあなたは借りがあるのです。

私がこれを強調したいのは、これは容易に忘れてしまうことだからです。このスピーチのように。

私は現在カリフォルニアのバークレーに住んでいます。数年前に私の家の近所で、カリフォルニア大学の心理学部がある実験を行いました。彼らは生徒たちを実験台として集め、性別で分けて男女3人ずつのチームをいくつか作りました。そして1チーム3人を部屋に入れ、無作為にそのうちの1人をチームのリーダーに任命しました。そして彼らに道徳的な問題を議論させたのです。大学のカンニングにどう対処すべきだとか、キャンパスでの飲酒をどう規制すべきかといった内容でした。

そして議論が始まってちょうど30分たったとき、実験者たちは各グループの部屋に4つのクッキーが乗ったお皿を差し入れました。1チームが3人なのに、クッキーは4つありました。各人がそれぞれクッキーをいただきましたが、残りの一枚がぽつんと残っているのは気まずい光景だったでしょう。しかしそんなことは起きませんでした。驚異的な確率でもって、無作為にチームリーダーに選ばれた人物が、4枚目のクッキーを手にして食べてしまったのです。ただ食べただけでなく、実に美味しそうに食べました:唇を鳴らし、大口を開け、よだれを流しながら。そして4枚目のクッキーで残ったのは、リーダーのシャツについたかけらだけでした。

このリーダーは特別な仕事をしたわけではありませんし、何かに優れていたわけでもありません。彼は30分前にランダムに選ばれただけです。彼がリーダーだったのはただの運でしたが、それでも彼は残りのクッキーは自分のものだと思い込んだのです。

この実験からは、ウォール街のボーナスやCEOの給料がなぜ高いかということだけでなく、さまざまな人間の行動が説明できるでしょう。しかしこれはプリンストン大学の卒業生にも関係があるのです。ある意味で皆さんはグループのリーダーに選出されたと見なせるでしょう。それは完全に偶然によるものではありませんが、自分たちは運がいい少数派だということは認識しておくべきです。親に恵まれ、国に恵まれ、幸運なあなたたちを受け入れられるプリンストンのような場所があることに恵まれ、他の運がいい人たちに出会って彼らをさらに幸運にできることに。皆があなたを自由にさせてくれる時代に、世界でも最も豊かな社会に住んでいるということに。

あなたたちの前には余ったクッキーが置いてあります。そして今後も多くのクッキーを目にすることになるでしょう。それは自分のものだと考えることは容易ですし、確かにあなたのものかもしれません。しかしそれは自分のものではないという姿勢を見せるだけでも、あなたは幸せになれるでしょうし、世界はもっと豊かになるのではないでしょうか。

忘れないで:国のために、すべての国のために。(プリンストンのモットー)

ありがとう。

そして幸運を。