05/06シーズン 総合視聴率

今年もアメリカではTVシリーズのシーズンが終了し、秋まで観るものが減ってしまうのは残念。もっとも俺がコンスタントに観てたのって「ハウス」と「ギャラクティカ」だけなんだけどね。 んで今シーズンの視聴率の最終結果が発表された。1、2位は例によってあの俗悪歌謡番組「アメリカン・アイドル」。十分に予想された結果とはいえ、かたやイラクで自国の兵士が続々と死んでるのに、素人参加の歌番組なんぞにウツツをぬかしている連中ってなんか嫌だな。

それから下は「CSI」に「デスパレートな妻たち」「グレイズ・アナトミー」といったシリーズが続いている。「グレイズ・アナトミー」ってどこが面白いんでしょうか。1、2話を観た限りだと「白衣を着たアリー・マクビール」といった印象しか残らなかったんだけど。同じ医療ドラマなら100倍は面白い「ハウス」は10位と大健闘。「アイドル」の次の番組だというのが影響してるんだろう。

でも視聴率と作品の出来は必ずしも比例してるわけじゃないわけで、例えば「アレステッド・ディベロップメント」は…えーと…あ、123位か。打ち切られるのも無理ない順位だな。でも「ディベロップメント」は俺にとってTV史上に残る大傑作シリーズだったわけで、その早すぎる死を悼んで最近またDVDをよく再鑑賞しているのです。

Intel MacMiniでFinalCut5.1は動作するのか?

アップルの映像編集ソフトFinalCutは5.1からユニバーサルバイナリ化されてインテルCPU用に最適化されてるわけだが、公式サイトによるとグラフィックスカード周りの事情でMacMiniやMacBookは動かない…とされているんだけど、いや実は動くらしい、という話を最近聞いたわけです。 そして今日たまたまアップル本社で簡単な発表会みたいなのがあったんで、そこでズバリ尋ねてみたら「答えられる立場にないんです…」という、実に微妙な答えが返ってきた。これってつまり「実は動くんだけど、サポート外だから公式には動くと言えない」ということなのかな。

まあMacMiniにFinalCut入れてもナンボの世界なんだけど、PowerMac G5 2GHz DualとMacBookのパフォーマンスが同等、なんて話を聞くとG5がやけにトロく感じられてしまうのです。いったいPowerMacのインテル版はいつ出るんだろう。

「ドゥーンズベリー」での死者追悼

こないだの日曜版「ドゥーンズベリー」には、イラク戦争で死んだ兵士の名前が細かい文字でビッシリと書き連ねられていた。ギャグも風刺もなく、率直に哀悼の意を表したものになっている。 俺が知る限りこれが行われたのは2回目だが、前と違うのは「パート1」そして「来週へ続く」と書かれていること。つまり死者の数が多すぎて日曜版の6コマでも記載しきれなくなっているのだ。しかもこれは開戦時からの死者ではなく、前回の05年4月からの数。兵士の死者だけでもこれだけ多いんだから、イラクの一般市民の犠牲はかなりの数になるだろう。まさか「パート3」まであるんじゃないだろうなあ。

アメリカとイギリス国民だけではなく、我々日本人も「イラクには大量破壊兵器がある」という大ウソをつかれて戦争にかつぎ出され、底の見えない泥沼にはまり込んでるわけですが、これって絶対なんかマズいよねえ。

「宇宙戦争」鑑賞

今更ながら「宇宙戦争」のDVDをレンタルして観てみる。 つまらんすねー。

1898年に書かれた小説の設定を、そのまま現代に持ってきてもなんか意味がないような。小説では意外な展開だった結末も、いざ映像化されると非常にあっけないというか、それまでドンパチ派手にやらかしといて結局はそれかよ、といった感じ。もうちょっと話にアレンジを加えても良かったのに。ヤヌス・カミンスキーの映像スタイルもいいかげん飽きてきた。

それでも立派なSFXのおかげでダラダラ観るぶんには一応楽しめるものの、キャスティングが足を引っ張ってる感じ。スピルバーグ作品の必須キャラともいえる「ダメ親父」を演じるトム・クルーズは「マイノリティー・レポート」なんかと殆ど同じ演技だし、ダコタ・ファニングは相変わらず「無垢な少女」役で、そこに小生意気なバカ息子が加わって実にステロタイプな一家の出来上がり。それになんでシャベルを持ったティム・ロビンズは素手でチビのトムに負けてんだ。

大金かけて映画化する意義がどこにあったんだかよく分からない作品。とりあえずスピルバーグは「ミュンヘン」が面白いらしいので、そっちに期待します。

「GRIZZLY MAN」鑑賞

アラスカの荒野に棲む、小型トラックほどもあるようなグリズリー・ベアに魅せられて13度の夏を彼らとともに過ごし、結局ガールフレンドとともにグリズリーに喰われてしまった自然愛好家ティモシー・トレッドウェルの姿を追ったドキュメンタリー「GRIZZLY MAN」を観る。監督はヴェルナー・ヘルツォーク。音楽をリチャード・トンプソンがやっていた。 トレッドウェルのことをヘルツォークが知ったのは彼の死後のことであり、彼が殺された現場の開設から始まるこのドキュメンタリーには死の影が常につきまとっている。作品の大部分はトレッドウェルが熊たちとともに撮った映像で構成されており、トレッドウェル本人が画面に出てきて躁病患者のごとく熊への愛を語り、必要とあれば何テイクも撮って自分の主張を述べ、熊のためなら殺されてもいいと話す彼の姿が興味深い。失敗した役者でアル中だった彼は熊とのふれあいに生きがいを見いだし、彼らに名前をつけて擬人化していき、学術的に見れば問題のあるような親密さをもって熊たちと接していく。これに対し「人間と自然の関係は一線を越えてはならないものであり、これが破られれば人は代償を支払わなければならない」という登場人物の1人の言葉が印象的だ。

トレッドウェルの口調は明らかに自己賛美的で、自分の愛情を自然は理解してくれていると本気で信じているところがあるわけで、己のエゴをもって自然に立ち向かうその姿は「アギーレ/神の怒り」におけるクラウス・キンスキーに通じるものがあるかな。両者ともブロンドだし。そしてナレーターも務めるヘルツォークはトレッドウェルに同情的であるものの、必ずしも彼の意見にすべて同意しているわけではなく、人間と自然の間にはただ混沌があるのみだと語っている。なおトレッドウェルが撮った一連の映像が、彼というキャラクターを主人公にした一種の映画となってしまっていることに、ヘルツォークは映画人として惹かれたんだとか。単なる自然賛美や故人の業績紹介なんかではなく、人間と自然の関係の複雑さを突いたドキュメンタリーだと思う。

ちなみに検死医が途中で出てくるんだけど、やや演技のかかった口調で、トレッドウェルの死体の状況を瞬き1つせずに語るその姿は実にヤバくて怖いのです。