ブルージェイズ対レッドソックス

FEVER PITCH」を観たから…というわけではないが、ロジャースセンター(旧名スカイドーム)までブルージェイズ対レッドソックス戦を観に行く。ブルージェイズのホーム開幕戦ということで非常に多くの人が来ていた。開幕式には元ガンズ&ローゼスのスラッシュがカナダ国歌をギターで弾き、始球式をカナダの人気コメディ「TRAILER PARK BOYS」のキャストが行うという余興があったらしいものの、人が多いせいかチケット確認がモタついてたので30分以上も列で待たされてしまい、ようやく会場に入ったら既に2回の裏だった。何やってんだチケット係。

試合はホームランやジェイズのエラーなどにより、終止レッドソックスのリードで進行。最終回には1点差に追いついて満塁のチャンスが訪れたものの、一歩届かずに6−5の僅差で破れてしまったのは残念。レッドソックスの数名を除けば知らない選手ばかりだったけど、いい内容の試合だったので満足できたかな。

それにしても観客が場内に物をバンバン投げ込んでるのには驚いた。

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「FEVER PITCH」を観た

フォックスのラブコメディ「FEVER PITCH」を観た。主演はドリュー・バリモアとジミー・ファロンで、監督はピーター&ボビーのファレリー兄弟。「メリーに首ったけ」なんかのお下劣路線で名を馳せたファレリー兄弟にとっては異色のストレートなコメディになるのかもしれないが、彼らの作品はあまり観たことないのでよく分かりません。一応それなりに低俗なネタが出てきます。そして原作は「ハイ・フィデリティ」や「アバウト・ア・ボーイ」で知られる作家ニック・ホーンビィ。以前にもこの原作は「僕のプレミア・ライフ」なんて邦題で映画化されてるとか。原作は弱小サッカーチームであるアーセナルの勝敗に一喜一憂するファンの心理を描いたノンフィクションだったのに対し、映画は例によって舞台をアメリカに移し、弱小野球チームであるレッドソックスのファンを題材にしたフィクションになっている。これじゃ原作とまるで別物じゃないか?
なお原作はアーセナルが久しぶりに優勝するところで終わってるが、映画も撮影中にレッドソックスが何と86年ぶりに優勝してしまったため、急いで結末を書き換えることになったらしい。これに対し旧来のレッドソックスのファンからは「あざといソクスプロイテーションだ」という声が挙がってるとか。何だよ「ソクスプロイテーション」って。

バリモアが演じるのはキャリアウーマンのリンジー。彼女は教師のベン(ファロン)と知り合い、すぐに恋仲になるのものの、実はベンはレッドソックスのあまりにも熱狂的なファンだった。彼女はベンのために自分の仕事を犠牲にしてまで一緒に試合に行ったりしていたものの、レッドソックスのことしか眼中にない彼との間にやがて亀裂が生じてきて…というのが大まかなストーリー。昇進を目前にしたキャリアウーマンが30歳になったからって、恋人がいないことに突然オロオロして小汚い低所得の教師と付き合うようになるなんて絶対ウソだと思うけど、その点にだけ目をつむれば比較的よくまとまったラブコメディになっている。

ただ原作のファンにとっては、ベンよりもむしろリンジーの観点に沿ってストーリーが進んでいくことに不満を感じる。基本的にニック・ホーンビィって従来の小説界では軽視されていた「男のいじらしさ」を描くのが優れている作家で、個人的にも「ハイ・フィデリティ」に出てくる、好きな女の子のためにせっせとミックス・テープを作る主人公の姿にひどく共感した覚えがある。しかしこの映画ではリンジーが主人公なので、レッドソックスのファンたちが「理解不能なオタク」として描かれてしまっている。そのため原作の魅力である、スポーツやレコード・コレクションといった些細なことに愛情と情熱を注ぐ男性たちの心理描写がかなり薄れてしまっているのだ。「レッドソックスのファンであるということは何を意味するのか」についてベンが激白するシーンも一応あるものの、いかんせんファロンの演技が下手なので「小汚いオタクの裏に隠れた繊細な自分」を表現することに失敗している。対するバリモアの演技が非常に艶やかなので、男性陣の代弁者であるべきファロンが役立たずにしか見えないのが残念。

男性側の心情がしっかり描けていた「ハイ・フィデリティ」や「アバウト・ア・ボーイ」に比べれば明らかに劣る作品だけど、これはあくまでも原作を読んだことのある男性としての意見なので、普通にデート・ムービーとして観る分には悪い映画ではないんじゃないでしょうか。ラストのクライマックスには感動できたし。

ただし予告編はジョークのオチばらし&本編に入ってないシーン満載なので、出来れば予告編を見ないで劇場に行くことをお勧めします。

「月世界の女」を観る

フリッツ・ラング監督のサイレント映画「月世界の女」をDVDで鑑賞する。以前に六本木の俳優座で上映してたのを観そびれたので。

このブログで映画について偉そうなことをいろいろ書きこんでるわけだが、俺が今まで観た映画のなかでナンバー1の作品は、実はラングの「メトロポリス」だったりする。色や音がなくても壮大なスケールの物語を見事に描ききったたあの映画はまさしく「失われた芸術」であり、現在の製作者がどんなに金をつぎ込もうともあの雰囲気をだすことは不可能だと思うのだけど、どうだろう。サイレント映画はセリフがない(もしくは少ない)ぶん、内容を頭の中で勝手に補完できるところが魅力ですね。

でも本作は3時間近くあるので(完全版?)、途中でずいぶんダラけるところがあったのは否めない。月ロケットが発射されるまで、1時間半も悪役との押し問答が続くのは何なんだ?
そして内容そのものは意外なくらいにハードSFしている。メリエスの「月世界旅行」みたいなファンタジーかなと思っていたら、ロケットの打ち上げや無重力状態などが(1920年代年当時としては)綿密に描写されているのが興味深い。ちなみにロケットの打ち上げにカウントダウンを用いたのはこの映画が初めてだとか。まあ月面に空気があるのはご愛嬌ということで。
あと当時の作品にしては珍しく(サイレント映画の女性ってみんな美人じゃありません?)ヒロインがあまり魅力的ではないような気がしたけど、ラストにはちょっと感動した。

「メトロポリス」だけでなく「M」や「ニーベルンゲン」といったラングの他の作品に比べれば明らかに劣る映画だけど、当時の科学観などが分かって面白い。一見の価値はある映画かと。

The Best 90 Minutes of My Life

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ミックス・テープの文化について、ソニック・ユースのサーストン・ムーアによる非常にカッコいい文章がWIREDに掲載されていたので翻訳してみた。原文はこちら。パッパと訳したので、誤りがあったら指摘をお願いします。

「生涯最高の90分間」

ミックス・テープを作ってる人のことを俺が初めて聞いたのは1978年のことだった。「ロック評論家の親玉」ことロバート・クリスゴーが、彼の好きなクラッシュのレコードは自分で録音した、シングル盤のB面が全部収録されてるカセットテープだってヴィレッジ・ボイスに書いてたんだ。あることに俺は感銘を受けた:彼は友人にあげるために、そのテープを作ってたんだ。自分でクラッシュのベスト盤を作り、ロックンロールに対する自分の情熱の証しとして人に渡してたのさ。

あのころのテープデッキはターンテーブルくらいに価値があり、同じくらいにバカでかかった。でもその後ソニーはウォークマンを発売した。レコード会社は消費者がアルバムのカセット版を買うことを望んでたし、実際そうした連中もいた。でもさ、空のテープを買ってレコードから曲を録音した方がいいんじゃないか?もちろんウォークマンを持ってた連中はみんなそうしたさ。おかげですぐにレコードやカセットにはこんなステッカーが付けられるようになった:「警告!個人録音は音楽の敵です!」。これは音楽ダウンロードやCDのバーニングに対する、現在の音楽業界のパラノイアの奇妙な先駆けだった。

1980年頃には、メチャクチャ速い曲を録音する若いバンドが勃発してシーンを形成していた。マイナー・スレートやネガティブ・アプローチ、ネクロス、バタリオン・オブ・セインツ、アドレッシェンツ、シン34、ミートメン、アーバン・ウエィスト、ヴォイド、クルシファックス、ユース・ブリゲード、ザ・モブ、ギャング・グリーンとかね。俺は狂喜して、シングルが発売されるたびに全部買いあさっていった。ソーホーにあるレストランの皿洗いの身じゃロクな給料を稼いでなかったけど、あれらのレコードが欲しかったんだ!

そして買ったレコードを時間の面でもっと有効的に聞く必要があったことから、お気に入りの曲の入ったミックス・テープを作ればいいことに気づいた。こうして俺が思うに史上最高のハードコア・テープが誕生した。テープの片面に「H」、もう片面に「C」と書き込んだよ。そしてその晩、愛しのキムが寝静まったあと、俺はステレオのカセットプレイヤーにテープを入れ、小さなスピーカーの一つをベッドまで持ってきて最小限のヴォリュームで聞き入った。あれは低周波の至福の状態だったね。音楽が体中の細胞と繊維組織をジリジリと焼き付けてるような感じだった。幸せだった。

それからソニック・ユースが80年代半ばにツアーをしたとき、俺たちはカセット・プレイヤーをヴァンに積み込むことにしたんだ。ダッシュボードを積み込むという案もあったんだけど、あれは値が張った。当時ニューヨークのストリートではヒップホップの連中がラップのミックステープを巨大なラジカセ、別名「ゲットーブラスター」で大音量で流すのが流行ってた。そこで俺はデランシー通りにある店に行き、バンドの限られた資金を使って、店に飾られてた一番大きなラジカセを購入した。コニオンのラジカセで、単一電池を16個も使うやつだった。俺たちが「コナン」と呼んだこのコニオンはまるで自分の胴体みたいで、小さな子供くらいデカかった。そして俺はそれをヴァンに詰め込むため、フロントシートの間に後ろ向けに立てて置くようにした。そしてヴァンがホーランド・トンネルを抜けて街から離れていくとき、初めて作ったラップのミックス・テープをかけてみた。ラジカセから流れる音は最高だった。

俺たちはステージ上にもこれを持ち込み、PAを通じて曲の合間のテープ・アクションとして鳴らしてみた。国中のファンがミックス・テープや希望の詰まったデモ・テープを渡してくれ、俺たちはそれらを全部かけてみた。ツアーが終わる頃には、踏まれてケースにヒビの入ったテープがヴァンに数百本も転がってるような状態だったね。

最近ではテープに代わってCDが主流になり、ミックスCDがカルチャーの新しいラブレターもしくは交易所になってきた。でもデジタルはアナログよりも粗雑な音触りがすると思ってる俺のような連中にとっては、MP3の蔓延する新世界は音楽の悪夢みたいなものなんだ。MP3はCDよりもさらに圧縮されて粗雑な感じがするし、最高のグルーヴ(レッド・ツェッペリンであれ、バッド・ブレインズであれ、ペイヴメントであれ)の場合は音の雰囲気がオリジナルからひどくかけ離れたものになってしまっている。

しかしMP3が貧弱な音しかしないとしても、人に知られた形式であり、無料で、交換が可能である限り、この世から消えるようなことはないだろう。より洗練された複製方法が開発されるに従い、音質も良くなってくるはずだ。今のところMP3のショボさはTunesの「セレブレティー・プレイリスト」によって美化されている状態だ。iTunesはミックス・テープの「推薦カード」みたいなものになった。名前を書き込むだけで、自分個人のものになってしまうのさ。

そして再び俺たちは、個人録音(今回はリッピングとバーニングという形式)は音楽を殺すと警告されている。でもそいつは違う:友人や恋人と音楽を分かち合うという行為に対する、心からの愛情と自尊心の表れとして個人録音は存在してるんだ。P2PのサイトやMP3ブログ、ビットトレント、あるいは今後開発される技術が何であれ、それらを禁止することによって音楽の共有を支配しようとすることなんて、ハートの情熱を支配するようなものさ。何も止めることはできない。

(5月刊行予定の「Mix Tape: The Art of Cassette Culture」(サーストン・ムーア編)より抜粋。)

「ザ・ホワイトハウス」 シーズン最終話

NBCの人気ドラマ「ザ・ホワイトハウス」こと「WEST WING」のシーズン6最終話が今晩放送された。一時期ほどの人気はなくなったと言われる番組だが、今シーズンはアラン・アルダやジミー・スミッツといった俺好みの役者がレギュラーに加わり、次期大統領選へのレースも加熱してかなり見応えがあったと思う。今夜のエピソードでも民主党大会を舞台に、大統領候補に誰が選ばれるかを非常に緊迫したペースで描ききっていた。数の限られたエキストラを使いながら、何万もの人が集まる大会の様子を表現してたのには脱帽する。

この番組って最初の40分くらいは誰かが政治的に窮地に陥り、胃がキリキリするような状況が続いたあと、普通の政治家だったら思いもつかないような実にカッコいいスピーチを決めることによって視聴者の溜飲を下げさせるという展開がかなりパターン化したような気がするが、見てて面白いのでよしとしよう。ただ最近の流行に沿ってカメラがずいぶんグラグラ揺れるようになったのが気になる。

次のシーズンはまず大統領選挙が焦点になるが、マーティン・シーンが演じている現大統領は任期満了により退くことになる。そのため誰が勝っても現在とは異なる大統領が就任するわけで、今後も目の話せない展開が続きそうだ。