「RAKE」鑑賞


FOXの新シリーズで、オーストラリアの同名番組のリメークらしい。第1話の監督はサム・ライミ。

キーガン・ディーンはロサンゼルスの弁護士だったがギャンブル好き・女好き・全てにルーズで自己中心的という徹底的なダメ男で、借金取りにボコられても懲りずに賭博に手を出し、弁護士仲間からも疎んじられている存在。彼は別れた妻子からもあてにされず、事務所の助手の給料も払えない状態だったが、すぐに金になりそうだということで連続殺人犯の弁護を引き受けることに。彼の有罪を認めるだけの手続きだったはずが、土壇場になって殺人犯が自分の罪状を否認し、裁判は思わぬ方向に…というのが第1話のプロット。

ちなみに題名の「Rake」とは「熊手」のことではなく「放蕩者」という意味な。そんな放蕩者の主人公を演じるのがグレッグ・キニアで、ごく普通の男性というかサエない男を演じさせたら彼ってトップレベルの役者だと思うのですよ。だからこの番組の役もすごく似合っているのだけど、逆に似合いすぎているというか、あまりにも主人公に魅力がないのが問題ではないかと。協調性のない主人公ということでアメリカでは「ハウス」と比べられているようだけど、あっちはまだ患者を救おうという意思があったのに対し、こちらは被告を弁護しようという気が感じられず、法廷ドラマとしても中途半端な出来になってしまっている。

せっかくグレッグ・キニアを起用してるのになんかもったいない番組。今後はもっと面白くなることに期待しましょう。

「In A World…」鑑賞


ナレーション業界(特に映画の予告編)を舞台にしたコメディドラマ。

ハリウッド映画の予告編のナレーションといえばドン・ラフォンテーンという伝説的な存在がいて、彼のキャッチフレーズ「In A World…」はあまたの予告編のナレーションで使われてきたわけですが、そのラフォンテーン亡きあと、誰が次のラフォンテーンになれるか?というのがこの映画の設定。主人公のキャロルは役者たちの発音コーチをしながらもナレーターを目指す女の子で、父親のサムはナレーターの大御所であるものの女性のキャロルには一切アドバイスを与えず、若いガールフレンドが出来たといってキャロルを家から追い出してしまうような奴。仕方なしに姉夫婦の家に転がり込んだキャロルは、新作映画のナレーションのオーディションに参加して仕事を勝ち取るものの、サムの友人でナレーター界のスターであるグスタフはそれを快く思わず…というようなストーリー。

主演と監督は「CHILDRENS HOSPITAL」に出ているコメディエンヌのレイク・ベル。あの番組の共演者であるロブ・コードリーやケン・マリーノのほか、ディミトリ・マーティンとかティグ・ノタロ、ニック・オファーマンといった中堅どころのコメディアンがいろいろ出演しているぞ。

女性の声優がアイドル的な扱いを受けている日本では想像もつかないが、ハリウッドのナレーション業界は男性のナレーターが圧倒的なシェアを占めているらしく、それを風刺した内容にもなっている。ラストにはしっかりジーナ・デイビス大統領が出てきてフェミニズムについて語ってくれるよ!(「あなたが女性だから選んだのよ」と言うのもそれはそれで差別的な気もするが)

全体的に粗削りなところもあって、姉夫婦の離婚危機のプロットは不要だったんじゃないかとか、ナレーション業界のことをもっと描いて欲しかった気もするものの、女の子が奮闘するコメディは嫌いではないですよ。個人的にも英語の訛りには興味があるので、いろんな外国人の会話を隠れて録音する主人公の姿とかは面白かったっす。

「I Give It a Year」鑑賞


イギリス人が乳繰り合うラブコメディを作ってはや20年(エドガー・ライトの作品とかも作ってはいますが)のワーキング・タイトル社が送る新たなラブコメ。

ナットとジョッシュのカップルは出会ってからすぐに恋に落ち、短期間で結婚にまで辿り着く。しかし2人の相性が微妙に合っていないのは周囲も認めるところであり、口の悪い友人には「2人の結婚はもって1年ね」と言われる次第。そしてその予見は現実のものとなり、2人の結婚生活は9ヶ月目に暗唱に乗り上げてしまう。それでも1年はどうにかもたせようと2人はカウンセラーのところに通ったりして努力するものの、ジョッシュの前には昔の彼女が現われ、さらにナットは金持ちの若社長に口説かれてしまう…というストーリー。

まあ「ラブ・アクチュアリー」的な、害のないジョークとホンワカとした展開が続くラブストーリーではあるのですが、主人公ふたりの食い違いがテーマになってるせいか、なんかしっくりこない内容になっていたような?恋愛のリアリティというかエグさをワーキング・タイトル作品に求めるわけではないですが、ナットへの若社長の迫り方なんてパワハラものだし、各キャラクターの描き方がみんな薄っぺらかったような。

それでもまあフィールグッドなオチに落ち着けばいいかなと思ってたのですが、最後はなんと(完全なネタバレなので白文字にします)『2人は結婚1周年のパーティーで「やっぱ俺ら合わないね」と離婚し、ジョッシュは元カノと、ナットは若社長とお互いの前で結ばれる!』いやーそれはないんじゃないの。奇をてらうにしても話の落としどころってものがあるだろうに。結婚してる人が観てもあれは納得いかないと思う。

ナットを演じるのがローズ・バーンでジョッシュ役がレイフ・スポール。おれレイフ・スポールってすごく無味乾燥なイメージがあって好きではないのですが、彼のどこらへんが魅力的なのでしょうか。親父と違ってイケメンになってしまったのが残念なところだな。ジョークをひたすら外す友人にスティーブン・マーチャント、結婚に飽きたシニカルな主婦にミニー・ドライバー、その鈍感な夫にジェイソン・フレイミング、ストーカーっぽい元彼女にアナ・ファリス、底の浅い若社長に相変わらず底の浅い演技しかできないサイモン・ベイカーと、脇役のキャスティングは完璧なだけに主人公ふたりの特徴のなさが惜しまれる。

恋愛下手の俺が言うのも何ですが、何か結婚というものをナメてるのではないと思った作品。もうちょっと世間体というものを気にしましょうよ。

「HELIX」鑑賞


『ギャラクティカ』のロナルド・D・ムーアが製作を務める、Syfyチャンネルの新シリーズ。ただしムーアはクリエーターやショウランナーではなく、『ギャラクティカ』ほどのコミットはしてないみたい。

120人ものスタッフが勤務する北極の巨大なリサーチセンターにおいて、3人の疫病患者が出たとの連絡が軍を通じてアメリカ疾病予防管理センターに届く。患者のうちの1人は、予防管理センターで働くファラガット博士の弟だった。弟の安否を確認するため、ファラガットは元妻の科学者や自分のスタッフを連れて北極へと赴く。そこで彼らが遭遇したのは、肉体が真っ黒な液体となって溶けた患者ふたりの遺体だった。しかしファラガットの弟のピーターは何かしらの抗体を持っているらしく、体を侵されながらも意識を保っていた。そしてピーターは超人的な怪力をもってベッドから抜け出し、センターのどこかに潜んでしまう。いったい彼の目的は?疫病の原因は?焦燥するファラガット博士たちの陰では、センター長のヒロシ・ハタケ、および軍部が陰謀を企んでいた…というようなあらすじ。

まあ北極を舞台にしたSFホラーというところ。ムーアは以前に「遊星からの物体X」のリメークに関わっていたはずなので、そこでのアイデアがここで活かされているのかもしれない。全体的にどこかで観たような…という展開が続いていて、登場人物も口の達者なデブとか、場違い的に若い美人科学者とか、型にはまった人たちが出ているような印象は否めない。ただし謎の細菌とか、変異を起こしたサルとか、いろいろ面白くなりそうな要素は散りばめられているので今後の展開に期待しよう。

ファラガット博士を演じるのはビリー・キャンベル。童顔だったロケッティアもさすがに老けたな。また準主役扱いで真田広之が出ていて、事件の黒幕らしきハタケ所長を演じている。彼の英語のセリフって、なんかすごく力を入れて喋っている感があるのが気になるのだが、それって俺だけだろうか。でも日本人俳優がレギュラーになれたというのは良いことだよね。

いちおう13話までの放送は決定しているらしいが、場所がとても制限されたストーリーであるので、それ以降の発展は難しいんじゃないかな?本国では「悪くないけど、『ギャラクティカ』ほどではない」というレビューが大半だけど、無理して『ギャラクティカ』と比べなくても良いんじゃないかと。とりあえず当分のあいだはストーリーを追ってみます。

「アクト・オブ・キリング」鑑賞


昨年公開されて絶賛と論議を呼んだジョシュア・オッペンハイマー監督のドキュメンタリー。プロデューサーにヴェルナー・ヘルツォークとエロール・モリスという巨匠が名を連ねているが、製作自体にはあまり関わってないみたい。122分のバージョンと159分のものがあって、後者を観たのだが、122分のほうにだけ使われてる映像もあるとか?

インドネシアで1965年に起きた軍事クーデターの結果として行なわれ、100万人もの共産主義者(中国系が多い)が殺されたという大量虐殺に関与したアンウォー・コンゴ(劇中ではずばり「処刑人」という肩書きで紹介される)を追ったもの。70を超えても高そうなシャツとスーツに身を包み、入れ歯を入念にチェックするアンウォーは北スマトラ州で映画館のチケットのダフ屋をしていたギャングの一員だったが、軍部が共産主義者の粛正にあたりギャングの手を借りたことから、彼らの虐殺に加担することとなりワイヤーを使った絞殺具で1000人もの共産主義者を殺したことを公言する(撲殺は血だらけになるから絞殺を好んだらしい)。

そのままギャングはパンチャシラ・ユースという数百万人規模の準軍事組織に組み込まれ、政権を支える存在として今日に至っている。彼らはマスコミや政権ともズブズブの関係であり、カメラの前で平然と華僑の店から金を巻き上げ、市民には賄賂を要求している。そして共産主義者の駆除に貢献したアンウォーのような処刑人は彼らにとって英雄であり、彼らを鼓舞する集会にギャング出身のアンウォーはよく招かれるのである(『「ギャング」というのは「自由人」という意味だよ』と政治家を含めた多くの人が語るのが印象的)。

このドキュメンタリーの最大の特徴は、この「残虐行為を行なった人たちが、そのまま現在でも権力の座についている」というところ。例えば第二次世界大戦とかベトナム戦争を扱ったドキュメンタリーだと、惨劇はあくまでも過去の出来事であり、それが回顧され、時には加害者と被害者が和解するというものが多いのだけど(ヘルツォークのこれとか)、この作品においては共産主義者への弾圧はまだ続いており、テレビ番組では若い女性キャスターが虐殺のことを当然の行為として言及し、アンウォーたちは自分たちの行なったことをむしろ誇らしげに若者へ語るのである。そんなアンウォーに対してオッペンハイマーが行なったのは、彼の虐殺行為を、彼の望む映画のスタイルで再現させることだった。

このため題名はつまり「殺人の行為」と「殺人の演技」という2つの意味を持つことになるわけだが、ギャング時代からハリウッド映画に憧れ、自分はシドニー・ポワチエに似ていると公言するアンウォーは往年のミュージカルや西部劇、ギャング映画のスタイルを踏襲し、自らも出演して殺戮の現場を再現していく。これらの再現において歴史的考証とかリアリティなどは二の次であり、加害者の役の人がいつの間にか被害者を演じてたりするわけだが、処刑人たちが尋問や処刑の方法について入念に説明したり、養父を殺害された男性が尋問される共産主義者を演じるにあたり、やがて現実と虚構(演技)の境界は溶けてなくなっていく。村の虐殺シーンにゲスト出演した政治家が、演技で「共産主義者どもをぶち殺せ!」などと叫んだ直後にオッペンハイマーに向かって「うちら本当はもっと人道的だからね!」などと注釈を入れる光景は筆舌に尽くし難い。

ちなみにアンウォーの片腕的存在としてハーマン(ヘルマン?)・コトというデブのチンピラが出て来るのだけど、ジャイアン的というか、ニック・フロストやジェフ・ガーリンあたりが演じそうなキャラでもう最高。年齢的に虐殺には関わっていないと思うが、女装して肉にかぶりつく入魂の演技を見せたりと、作品にものすごいアクセントを加えている。実生活でも「オラ金持ちになるだ!」と奮起して議員選挙に立候補するなど、彼がいなかったらもっと異なる作品になってったんじゃないかな。

そしてアンウォーと同様に虐殺に関わった旧友もまた撮影に参加するのだが、彼の場合はもっと「自分たちの行ないは冷酷であった」ということを自覚しており、このドキュメンタリーが世の中に出た時の影響を懸念している。その一方では「歴史というものは勝者によって書かれるものであり、我々はその勝者である」として自らの行いを正当化しようとしている。実際に処刑人の多くは精神に異常をきたすことがあると示唆されるのだが、アンウォーにとっての殺人の正当化の手段は、ギャング時代に観たハリウッド映画であった。アクション映画などを観て高揚したあとに、(酒やドラッグも加わって)殺害を行なうのである。

これらの演技を通じたアンウォーの心境の変化は劇中だといまいち汲み取りにくいところもあるのだけど(自責の念が完全に欠落しているので)、そこらへんについてはネット上におけるオッペンハイマーの一連のインタビューが参考になるかと。とはいえアンウォーも自分の行為を再考するようになり、衝撃的なラストシーンへとつながっていく。

これを観て単に「あーインドネシアって非道い国だなー」って考えることは容易だよ。エンドクレジットに載ってるスタッフの大半は、政府の迫害を恐れて「匿名さん」になっているし。ただここで描かれてることって、一国の出来事でなくもっと人間の根本的な悪というか不正義をさらけ出しているのだろう。そして我々はそれを過去のこととして切り捨てることもできず、その上に築かれた日常において幽霊たちと暮らさなければならないのである。