32年ぶりの来日、と聞けば行かずにはいられまい。場所がブルーノートというハイソな場所だったせいか、それとも50年くらい(!)活動してるバンドのせいか、年配の客が多かったような。

目玉とタキシードの格好という印象が強くて、来日のチラシなどでもそのイメージが使われているものの、彼らは何度もイメチェンを繰り返しておりまして、今度の来日にあわせて出してきたのが上の、牛とペスト医師みたいな格好。どういうコンセプトがあるのかわからないし、模索するだけ野暮でしょう。当然こんな格好では歌えないし楽器も見れないということで、実際のステージ上ではもっと簡略化された衣装でした:

ミクラスみたいなツノを持った牛がボーカルで、ペスト医師はギターとキーボードとドラムという構成。衣装の端っこから覗ける手や顔の一部を見るあたり、そんなに年寄りそうには見えなかったので、当然ながらオリジナルメンバーが演奏しているとか、そういうものではないのでしょう。ギタリストが他のメンバーよりも背が高くて、そんなに身長差があるバンドだとは知らなかった。まあレジデンツを名乗ってれば中の人はどうでもいいんだよ!ということで。

肝心の演奏はステージ左の風船上のスクリーンに、相変わらずのヘタウマなCGの人物が曲の合間に投影され、カウボーイとかバレリーナの夢を語るという演出がされていた。多人数の夢の話という点では「ジンジャーブレッド・マン」に似てたような?新譜からの曲が多かったのか、「マンズ・マンズ・ワールド」以外は知ってる曲が無かったぞ。「ワームウッド」の曲とかもやってたようだけど。ボーカルは相変わらずのダミ声シャウト系で、キーボードとエレクトリックドラムでさまざな音を出している感じ。ドラマーがコーラスもやってたはず。

まあレジデンツのライブに何を期待していたのか分からないので、こういうものだったとしか言いようがないのですが、いかんせんステージが狭いためにパフォーマンスが限られてるような印象は受けました。あれ後ろの垂れ幕外せばもっとステージ広いよね?2日目も3日目も行く予定なので、初日とどう違った演奏をするのか見てきます。

翻訳の勉強も兼ねて、ボブ・ディランのノーベル賞受賞のスピーチ(本人は式典に欠席)を訳してみたのだよ。原文はこちら。コピーライトは© The Nobel Foundation 2016. 12月10日から2週間のあいだはどんな言語でも事前承諾なしで掲載してオッケー、みたいなことが書いてあるので著作権的にもクリアされてると思います。

(2016年12月10日、スウェーデンの駐米大使アジータ・ラジによる、ボブ・ディランからのノーベル賞授賞式でのスピーチ。)

皆様こんばんは。スウェーデン・アカデミーの会員各位および会場にいらっしゃる名高いお客様たちに、心からのご挨拶をさせていただきます。

私自身が式典に出席することができず申し訳ありません。しかし私の気持ちは皆様とともにあり、このような栄誉ある賞を受け取ることができたことを光栄に思っています。ノーベル文学賞を受け取れるなんて、私はまったく予想も想像もしていませんでした。私は若い頃から、この賞を得た作家たちの作品を読み、多くを学びました。キップリングやショー、トーマス・マン、パール・バック、アルベール・カミユ、ヘミングウェイなど。こうした文学会の巨人たちの作品は学校で教えられ、世界中の図書館に置かれ、尊敬をもって語られ、常に深い印象を与えてきました。こうした人たちのリストに私が加わるということは言葉に表せません。

これらの作家がノーベル賞受賞を意識していたのかどうかはわかりませんが、世界中で本や詩や演劇を書いている人なら誰しも、そのような夢を密かに抱いているに違いありません。あまりにも密かで、本人が気づかないほどにね。

もし誰かが私に対して、ノーベル賞を受賞する微かなチャンスがあるよ、と言ったとしたら、それは自分が月面に立つのと同じくらいの確率だと私は考えたでしょう。実のところ私が生まれてから数年のあいだ、文学賞に値すると見なされた人は世界のどこにもいなかったわけで(訳注:1940年から43年まで文学賞の受賞者はいなかった)、私はとても数少ない人々のあいだに迎えられたという実感があります。

受賞の驚くべき知らせを受け取ったとき私はツアー中でして、知らせを理解するのに数分かかりました。そして私は文学の巨匠、ウィリアム・シェークスピアに思いを馳せました。彼は自分のことを劇作家だと考え、文学を執筆しているなんて思ってもいなかったでしょう。彼の言葉は舞台向けであり、読まれるのでなく話されるものだとして。彼が『ハムレット』を執筆しているとき、多くの異なることを考えていたに違いありません。「この役に適した役者は誰だ?」「どのように演出されるべきか?」「話の舞台はデンマークでいいのか?」などとね。創造性と熱意は常に彼の念頭にあったでしょうが、同時にもっと凡庸な課題に対応する必要もありました。「予算はあるのか?」「パトロンにいい席は確保されているか?」「頭蓋骨はどこで入手すればいい?」など。シェークスピアが最も考えていなかったことは「これは文学か?」でしょう。

10代のときに歌を書きはじめ、そこそこ有名になったときでも、私の歌に対する願望はたかがしれたものでした。喫茶店やバーで歌を聴いてもらい、もしかしたらカーネギーホールやロンドン・パラディウムで後には演奏できるかもと。もし本当に大きな夢を見ていたら、レコードを作り、自分の歌をラジオで聴くことができるかもしれないといった程度です。それが私の考えていた大きな賞でした。レコードを作り、自分の歌がラジオで流れることはより多くの人々に聴いてもらえるわけであり、自分が始めたことをこの先もずっと続けていけることを意味していたのです。

そして私は自分がはじめたことを長年続けてきました。レコードを何十枚も作り、世界中で何千ものコンサートを行ってきました。しかし私が行うことの殆どすべての中心には私の歌があります。私の歌は数多の文化において多くの人々に受け入れられたようで、そのことに私は感謝しています。

しかし1つ言いたいのは、パフォーマーとして私は5万人の観客と50人の観客の前で演奏したことがありますが、50人に対して演奏するほうが難しいということです。5万人の観客は1つの人格を持っていますが、50人はそうではありません。それぞれが個別の性格を持ち、独自の世界を持っています。彼らの方が物事を明確にとらえることができるのです。あなた方の正直さと、それがあなた方の才能の深さに結びついていることは疑うべきもありません。ノーベル委員会がかくも少ない人数で成り立っていることを私は十分に認識しています。

とはいえ、シェークスピアのごとく、私も自分の創造性の追求と、人生の凡庸な物事への対応にいつも追われています。「この歌に最適なミュージシャンは誰か?」「正しいスタジオでレコーディングしているのか?」「この歌のキーは合っているのか?」などね。400年たっても変わらないことは変わらないのです。今まで私は一度も「歌は文学なのか?」なんて考えたことはありません。

そしてこの質問について考えてくださり、最終的に素晴らしい回答を与えてくれたスウェーデン・アカデミーに心から感謝させていただきます。
皆様に幸せがあることを。

ボブ・ディラン

Theory of Obscurity_ A Film About the Residents
目玉のマスクやその他たくさんの仮面を被り、正体を隠して40年以上コツコツと奇妙な音楽とパフォーマンスを披露し続けているサンフランシスコ出身のバンド、ザ・レジデンツのドキュメンタリー。彼らの詳しい経歴についてはウィキペディアの記事(おれが訳しました)を参照してください。

ヒッピー文化真っ盛りのサンフランシスコに前衛音楽をやりたい若者たちが集まったところからザ・レジデンツの経歴が語られるわけだが、当然のごとくこのドキュメンタリーには本人たちがいっさい登場しないので、当時の彼らを知る人々や元スタッフ、彼らのファンたちによってレジデンツの功績が語られていく。

インタビューを受けてるのはレス・クレイプールやマット・グレーニング、ペン・ジレットなどといったレジデンツ好きで知られる人々のほか、ディーヴォのメンバーやトーキング・ヘッズのジェリー・ハリソンなども登場していたし、レジデンツをサポートする団体であったクリプティック・コーポレーションのホーマー・フリンも多くを語っていた。なおホーマー・フリンこそがレジデンツの中の人ではないかという噂はファンのあいだで長らく語られてきたのだが、それの手がかりとなるような話は何も出てこなかった。

扱っている題材に比べるとドキュメンタリーの作りはいささか凡庸だが、レジデンツとして活動する前にサンフランシスコで演奏していた映像とか(画質が悪くて顔は見えず)、未完に終わった白黒映画「ヴァイルネス・ファッツ」のセットのカラー写真とか、目玉マスクの仕組みの説明(瞳の部分から外を見ることができ、ベルトで頭に固定するらしい)などといった映像は貴重かも。

なお題名の「Theory of Obscurity」というのは彼らと初期に共演していたサックス奏者のミステリアス・Nセナダが提唱したという「アーティストは正体が分からないときこそ、その真価を発揮できる」というセオリーであり、これに基づいてレジデンツは顔を隠し、性別を隠し、正体を隠しているのである。ここらへんはバンクシーなんかと通じるものがあるのかな。しかしNセナダがそもそも実在の人物ではないという説もあるようで、実に謎である…。

レジデンツの入門書みたいなドキュメンタリーだが、これを観て興味を持った人は彼らのPV集である「イッキー・フリックス」なんかを観てみると彼らの斬新さが分かるのではないでしょうか。姿を隠したままこれからもザ・レジデンツは活動を行い、俺やあなたたちが亡くなったあともレジデンツは生き続けるのである。

年末に「年取ってから後悔する37の事柄」という記事を読みまして、ならば俺はこれらの事を後悔しないように生きようと思いまして、なんか典型的なミッドライフ・クライシスの兆候が出ているわけですが、その37の事柄の1つに「機会があったときに好きなミュージシャンのライブに行かなかったこと」というのがあるわけですね。

それとこないだ書いたように90年代とかの音楽ばっかり聴いてるのも良くないよね、もっと新しい音楽を聴かないといけねいよね、と奮起して「AVクラブ」が選んだ2013年のベスト・アルバム群を片っ端から聴いてみたわけですね。そのなかではハイムやチャーチズ、デフヘヴンなどの曲が良いなと思いまして(逆にヴァンパイア・ウィークエンドは何度聴いてもピンとこない)、そのうちのチャーチズが来日することを知ってさっそくチケットを入手した次第です(本当はハイムがその前に来日してたのだがソールドアウトだった)。

場所は恵比寿のリキッドルーム。ワシが若い頃はリキッドルームは新宿にあったんじゃがのう。スタッフの対応はイマイチだったけど、会場は広くて良かったですよ。昨年ワイヤーが来日したときの、恵比寿の別のライブハウスは音が割れまくってたからなあ。

前座はエラーズとかいうグラスゴーのポストロック・バンド。事前にyoutubeでチェックしてた印象とは異なり、意外とギター・ロックっぽい編成であった。特にドラムのエフェクトのかけかたが面白かったな。しかし機材のトラブルが続き、1度はラップトップが落ちたとかで曲をまるまるやり直すはめに。エレクトロニカのバンドってこういうのが弱みだよね。「バンド名のとおりエラーが起きました、HAHA!」などと笑ってごまかしていたが、こういうときにブーイングしない日本の観客って人がいいよね。

そしてメインのチャーチズ登場。ボーカルの声がちょっと出てなかったような感じもしたけど、まあ許容範囲。ただこちらも機材トラブルがあったらしく、モニターの返りが悪いとかで3曲目あたりでいったんライブが中断したのに萎える。その後は順調に進んだけど、エレクトロニカ系のバンドってどうしても即興性に欠けるというか、カラオケっぽい感じになると思うのは俺の勉強不足でしょうか。あとアルバム同様に男性ボーカルの曲が1つあったんだけど、なんかヘタでした。今後は女性ボーカルに専念しなさい。

というわけで久しぶりにライブに行けて面白かったです。今年はもっとライブハウスに足を運ぶようにせねば。


自分が大学時代によく聴いていたメランコリックなバンド、ギャラクシー500のドラマーで現在はデーモン&ナオミで活躍するデーモン・クルコフスキーが2012年の11月に、ピッチフォークのサイトに寄稿した記事。月額制の音楽ストリーミング・サービスが、ミュージシャンに雀の涙ほどの印税しか払っていないことを述べたもの。1年前の記事なので各サービスの財政状況は変わっているかもしれないが、先日もジョニー・マーがSpotifyを糾弾してたりするのを見ると、ミュージシャンの待遇はさして変わってないだろう。

ただし自分もこれに似たサービスに関わっていることもあり、ミュージシャンへの還元よりも株主の利益を優先してしまうSpotifyやPandoraの行動も、まあ理解できなくはない。これらの会社の成長と、ミュージシャンの利益を両立させるのはどうすれば良いのか、というのが悩ましい点でして。

ちょっと話はズレるが、いまから10年くらい前にiTunesストアで音楽の販売が開始されたときは、大手レコードレーベルに所属するアーティストも、極小レーベルのアーティストも、作品の販売網という点ではみんな横並びになったから、大手レコード会社のビジネスモデルが崩壊すると真剣に論じられていたような記憶がある。でも実際はあまりそうならず、大企業がさらに金持ちになったわけで。その事実を踏まえたうえで、じゃあものを作っている人たちはどうやって儲けましょうかね、というのがミュージシャンだけでなく映像業界とか出版関係の人たちのここ数年の課題になるであろう。

原文はこちら。原文どおりにリンクを張ったが、リンク先が死んでるところもあります。あと経済用語とか間違ってたらご指摘ください。

小銭稼ぎ

どの世代のミュージシャンたちも、激動の変化の時代を生きてきたと感じるだろう。しかし僕がこの比較的短いキャリアのなかで経験したこと——フォーマットの変化からビジネスモデルの消滅まで——は本当に驚くべきことだと思える。僕が初めて1988年に作ったアルバムはLPフォーマットでのみリリースされた。そして僕が次に作るアルバムも、LPのみでのリリースになるだろう。しかしこれらのアルバムのあいだに、音楽業界は商品の売買という単純な仕組みを、全力でメチャクチャにしてしまったようだ。レコーディングを通じてまっとうな収入を得ることが、現在のミュージシャンの大半にとってはもはや不可能になってしまっているのだから。

僕は昔を単純に懐かしんでいるわけじゃない。最初のアルバムだって全く稼ぎにはならなかった(当時契約していたレーベルのラフ・トレードは、僕らに何かしらの印税を払う前に倒産してしまった)。しかしミュージシャンが搾取される有様は、個人的な詐欺からもっとシステム化されたものへと変質を遂げた。そしてこの変質とともに、音楽業界が抱える問題を回避できる可能性はどんどん低くなってきている。僕らのように音楽の権利と印税を100%保持できたミュージシャンにとってもだ。

僕らの日常にどんどん入り込んできている、PandoraやSpotifyといった音楽ストリーミング・サービスを参考にしてみよう。こないだ2012年第1四半期分の印税の明細を受け取ったが、こうしたサービスを通じて僕らの音楽が聴かれているのは嬉しいとは思うよね。例えばギャラクシー500の曲『タグボート』はこの時期にPandoraで7800回ほど再生され、これに対して3人のソングライターは合計で21セント、つまり各人7セントの印税を受け取った。Spotifyはもっと支払いが良いよ:こっちでは『タグボート』が5960回再生されて、3人のソングライター全員で1.05ドル(各人35セント)という3ケタの印税になったのだから。

これを別の観点から考えてみよう:僕らは自身のレコーディングの権利を持っているから、僕の計算によるとPandoraで31万2000回の再生がされれば、LPレコード1枚——1枚だよ——の利益と同額になる(Spotifyでは4万7680回がLPレコード1枚分)。

あるいは歴史的な観点から考えてみよう:ギャラクシー500の初のリリースである『タグボート』の7インチシングルは、1000枚のプレスをするのに980.22ドル、あるいは1枚あたり98セントかかった。送料も含めてだ(ナオミが領収書を保管していた)!それをいくらで売ったかはもう憶えてないが、1枚あたり少なくとも2~3ドルの利益を得ることは容易だった。つまり7インチシングルを1枚売るだけで、PandoraやSpotifyで1万3760回再生されるよりも多くの利益を得ることができた。別の見方をすれば、1988年に1000枚のシングルを製作することは、2012年にその曲が1300万再生されるよりも多くの収益を僕らにもたらせることになる(新人バンドにとってはインターネットこそが収入源だと、人は言うけれど…)。

公平さのために言っておくと、僕らはシンガー・ソングライターであり、全ての権利を保持しているため、これらのストリーミング・サービスは二次的な印税も僕らに支払うことになる。これには各々の理由があり、それぞれ異なるところから支払われる。例えばPandoraは『非地上波ラジオ』と見なされ、そのストリームで曲が提供されているミュージシャンおよびソングライターに印税を支払わなければならない。これらの印税は、衛星ラジオが登場したときに政府によって設立された非営利団体であるSoundExchangeによって集められる。SoundExchangeは曲ごとの印税の計算はしないが、彼らによるとPandoraはこの四半期にギャラクシー500の曲を提供した分として総額64.17ドルを僕らに支払った。僕らはギャラクシー500の曲を64曲提供しているから、つまり1曲あたり約1ドル、もしくは各人あたり33セントの追加収益という計算になる。

実のところPandoraはこのミュージシャンへの二次的な印税を経済的な負担だと考えていて、それを免除してもらうために新しい法案――いまアメリカ議会に提出されている――を通そうと積極的なロビー活動をしている。これについてはニューヨーク・タイムズのベン・シサリオの一連のブログ記事が参考になるだろう。あるいはストレートなプロパガンダがご希望なら、インターネットラジオ更正法がいかにオーウェル的であるかを、Pandora創設者のティム・ウエスターグレン自身が説明しているのを聴くこともできるよ。

一方のSpotifyは、どの世界でもラジオとして見なされていないため、別の二次的な印税を支払うことになる。レコーディングを非放送用に使用するときのように、曲の提供にあたっては権利者からの許諾が必用となり、彼らはそれぞれのレコードレーベルと個別に契約を行うが、その詳細が公表されることはない。でも僕らの契約内容は明かせるよ:『インディー』レートとして1再生あたり0.005ドルの印税だった。(実際に計算してみるとこのレートは0.004611ドルの印税になっている。0.0004ドルほどの節約ができたことで、Spotifyの誰かがボーナスをもらってるといいね!)正直なところ僕らに交渉できる余地はなかった。僕らのように自身のレーベルを持っている場合、先方の条件を受けるか受けないかの二択しかない。僕らは条件を受け入れ、『タグボート』が5960回試聴されることで、Spotifyは理論的には29.80ドルをレーベルに支払うことになった。

『理論的には』と言ったのは、このSpotifyの0.004611ドルのレートには小さな透明の注意書きがびっしりついているからだ。このレートには再生回数やSpotifyへのリンク元、ユーザーの契約状況などを反映したアルゴリズムによる修正が、ストリームごとに加えられているらしい(その詳細をSpotifyは公表していない。少なくとも僕らには)。さらに僕らに渡された書類から計算してみたものの、Spotifyが僕らのレーベルに報告している再生回数と、著作権管理団体のBMIから報告されている再生回数を一致させることができなかった。結局のところ僕が計算できた限り、『タグボート』の再生によってSpotifyが僕らに支払った額は、9.18ドルだけだった。

「それは別に悪くはないんじゃないの」と言う人もいるかもしれない(本当に誰かがそう言うかは疑問だけど、誰かが言ったと仮定しよう)。商品に形があるわけではなく、音楽をこれらのサービスで提供するにあたり、僕らにはプレス代も印刷代も送料も、紙の領収書を25年も保管しておくスペースもかからないのだからと。確かにそうだろう。しかし形のない商品というのは、同じくらいに形のない利益しか生み出さないんだよね。

ここに問題の核心がある。僕がレコードを作り始めたとき、ビジネスのモデルはものすごく単純だった:何かを製作し、製作費よりも高い値付けをして、その値段で売ろうとする。これは7インチの商業資本主義だった。それに対して現在のモデルは、金銭的投機に近いものになっているようだ。PandoraやSpotifyは商品を売ってるのではなく、サービスへのアクセスや行動を販売している。誰かがサービスに加入すれば、皆が儲かるというように(クラウウドソーシングさえも、この現代の資本主義における『投機』モデルを踏襲していることに驚かされる。まだ存在していないものに対して人はお金を支払っているわけだから)。

しかしこれには難点が1つある:PandoraとSpotifyは、自身のサービスから何の儲けも得ていないのだ。2012年の第1四半期において、Pandora——ギャラクシー500の『タグボート』の使用料に1.21ドルだけ払った会社だよ——は2000万ドル以上の純損失を計上した。一方のSpotifyは、最新の報告によると2011年に5600万ドルの損失を出している

なぜこれらの会社は、既にバカみたいに低い印税からさらに何百分の1セントを削ろうとしているのかとか、印税のレートをさらに下げる法案を通すためにロビイストたちに給料を払っているのかと疑問に思うのは置いておいて、彼らにとって重要だと思われる質問を聞いてみよう:なぜ彼らはこのビジネスを続けているのか?

答えは資本だ。PandoraとSpotifyは資本を持ち、資本を生み出している。彼らはレコード会社じゃない——レコードや他の何かを作っているわけではないし、さらには利益さえ生んでないようだ。彼らの存在理由は、投機資金を集めるためにある。そしてその資本を保有している人たちは、何百万ドルもの利益を手にしている——2012年にPandoraの重役たちは6300万ドル相当の会社の株式を売却した。またSpotifyのCEOであるダニエル・エクは、「会社がいつ黒字になるかは重要ではない。我々の狙いは成長することだけにあり、それが1番・2番・3番・4番・5番の目的だ」と語っている

これは音楽業界の成長ということかな?そうじゃないだろう。ダニエル・エクにとっての成長とは、彼の会社つまりその資本の成長のことだ。1988年に初めてLPを作ってから、いま作っているLPまでの間に僕が経験した、音楽業界の根本的な変化を理解しようとすれば、こういう結果に辿りつく。このあいだに支配的になったビジネスモデルにとって、レコーディングされた音楽のセールスというのは重要でないものになってしまったが、働くミュージシャンとして僕はこのモデルには反対する。実際のところこうしたビジネスにとって、音楽そのものが重要でないものになっている——それはあくまでも情報の1形態であり、株式を購入させるボタンやリンクをクリックさせるための誘因でしかないんだ。

ビジネスとして、PandoraやSpotifyは音楽からかけ離れたものとなっている。僕には、彼らが音楽のビジネスに何も貢献していないことが容易に想像できる——アイデアをレコードにのせ、それを製作費以上で販売するという家内工業を痛めつけることはしてるだろうけど。でも僕は別にラッダイトなんかじゃない——iPhoneをたたき壊してソフトウェアを破壊しろと唱えてるわけじゃないし、実際には月額9.99ドルを払ってSpotifyに加入している(『タグボート』の年間再生680,462回分だ)。なぜなら僕は音楽が好きだし、Spotifyがそれであらゆる音楽を聞かせてくれるのは素晴らしいことだから。

しかし僕はミュージシャンとして、これらのビジネスモデルに対して金銭的な期待をすることはやめた。そしてビジネスモデルなしで音楽を共有することこそが、僕が音楽を始めた最初の理由だ——それを僕らはパンクロックと呼んでいた。だから僕らはギャラクシー500デーモン&ナオミのすべての音源を、Bandcampに設立したサイトでまったくの無料でストリーミングで共有することにしたよ。楽しんでね。