「EXTRAS」シーズン2鑑賞

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WOWOWがこんど「エキストラ:スターに近づけ!」という相変わらずセンスのカケラもない邦題で放映する、リッキー・ジャーヴェイスのシットコム「EXTRAS」のシーズン2を観る。

シーズン1との大きな違いは、今まではジャーヴェイス演じる主人公がタイトル通りセリフも無きエキストラだったのに対し、シーズン2では人気のある(しかし批評家には酷評されている)シットコムのレギュラー役を獲たことで、彼が徐々に有名になっていくのが特徴になっている。。特にシーズンの前半ではもっと真剣な役を演じたいと感じる彼の葛藤、後半はプチ有名人となった彼が経験する気まずいシチュエーションの数々が話の軸になっていた。ドラマ色が強い番組であることは前にも書いたけど、このシーズンでも他の有名人と対等に扱ってもらえない主人公の悲哀や、未ださえないエキストラを続ける親友のマギーの姿なんかが結構真面目に描かれてた。

このようにドラマ色が強い一方、声を出してゲラゲラ笑える場面も多くて、特にスティーヴン・マーチャント演じる能無しのエージェントのボケっぷりが最高に面白いんだけど、大半のネタは主人公が直面する気まずい状況(昔の恋人に罵倒されるとか、舞台でゲイの役を演じさせられるとか)を中心にしたものになっていた。そしてこれらを観ててふと気づいたんだけど、この笑いのとり方って同じHBOの「CURB YOUR ENTHUSIASM」(邦題忘れた)にそっくりなんだよね。周囲の人の勘違いや多少の悪意から主人公が気まずい状況に置かれるまでの描写がかなり似ているし、主人公がちょっとした有名人だという点も同じ。ジャーヴェイスは以前から「CURB」およびラリー・デイビッドのファンであることは公言しているし、オリジナルの要素が満載の「EXTRAS」を単なるパクリ作品と呼ぶわけにもいかないんだが、個人的にはこういう主人公の苦境を笑うようなジョークってあまり好きじゃないんで、あまり面白いと思わないネタもそれなりにあったかな。

あとシーズン1同様にいろいろな有名人が本人役で毎回登場するんだが、その殆どが横柄(オーランド・ブルーム、クリス・マーティン)もしくはスケベ(ダニエル・ラドクリフ、ロバート・デ・ニーロ)という典型的な「意外な素顔の有名人」を演じていて、どれも似たり寄ったりで厚みのないキャラクターになってしまっているのが残念なところ。妖怪のようなスティーブン・フライは相変わらず良かったけど。あと、身体障害者関係のネタがどことなく多いのもなんか気になる。

ジャーヴェイスの名を一気に高めた「THE OFFICE」は2シーズンとクリスマス特番で神のような領域に達したシットコムだったけど、残念ながらこの「EXTRAS」はシーズン2が終わっても迷走状態を続けているような感じが否めない。製作が既に決まっているシーズン3での健闘にとりあえず期待しましょう。

「PRIDE OF BAGHDAD」読了

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ブライアン・K・ヴォーンがストーリーでニコ・ヘンリション(HENRICHON。ケベコワらしいので「アンリション」かもしれない)がアートを担当したDC/ヴァーティゴの単発コミック「PRIDE OF BAGHDAD」が「ヴァラエティ」や「デイリーヨミウリ」を含む、あらゆる方面で大絶賛を受けていたので、アマゾンでさっそく買ってみた。136ページのハードカバーで2080円也。

ブライアン・K・ヴォーンといえば、謎の疫病によってすべての「男」が死に絶えて女性だけとなった世界に1人生き延びた少年の冒険を描いた「Y: THE LAST MAN」や、911テロのあとにニューヨークの市長になったスーパーヒーローが主役の「EX MACHINA」など、優れたコンセプトをもった作品を書くことで近年評価が非常に高まっている作家だけど、それらの作品は個人的にはピンとこないところがあったかな。でも最近ダークホースでやってるミニ・シリーズ「THE ESCAPISTS」は非常にいい作品ですよ。そしてこの「PRIDE OF BAGHDAD」はタイトルの通りイラクのバグダッドを舞台にしたもので、実話をもとにしているらしい。主人公となるのはアメリカのイラク侵攻によって無人となった動物園から逃げ出したライオンの一家(「PRIDE」にはライオンの群れという意味もある)。アフリカの大地を覚えている老いた雌ライオンと、心優しい雄ライオン、その妻の雌ライオンと息子で好奇心旺盛な若ライオンの4匹が、戦争の動乱のなかでバグダッド市内をさまよい、狡猾なサルの集団や老いたウミガメ、そして人間の操る戦車などに遭遇していく。いわゆる「お話しする動物」の物語とはいえ内容はきわめて真剣で、戦争に巻き込まれた動物たちが辿る運命が描かれていく。現実社会のアレゴリー的なセリフやキャラクターも出てくるものの、あまり露骨な政治批判とかはないかな。美しくも悲しい、大人向けのおとぎ話といった作品。

このように内容は決して悪くないんだけど、個人的には評判ほどの出来ではないかな、といった感じもする。まあ「ウォッチメン並みの大傑作!」みたいな書評を見て過剰に期待していたのが原因なんだけど、話の展開が比較的ストレートであまり「これは!」と思わせるようなところがなく、そんなに話に深みがなかったような気がする。物語後半の戦闘シーンとかも典型的なアメコミ調で不必要に感じられたし。それとも俺に読解力がないだけなのかな。なんにせよヘンリションのアートは非常に美しいし、何の前知識もいらずに読むことができる作品なので、アメコミの入門書とかにはうってつけの作品だろう。

しかしイラク戦争も泥沼にはまってズルズルと続いてるね。ベトナム戦争を主題にした映画とかが数多く作られたように、今後はコミックでも映画でも、このようにイラクを舞台にした作品がどんどん作られてくんだろうか。

コミック作家は全米図書賞の夢を見るか?

昨日に続いてWIRED関連の話。あそこのスタッフライターが自分の記事で、とあるグラフィック・ノベル(コミックのことだよ)が全米図書賞にノミネートされたことに対し、「コミックなんてものは全米図書賞に値しない」と書いたことで、多くのコミック・ファンはおろかニール・ゲイマンからも非難を受けているんだとか。例えば2001年にガーディアン・ファースト・ブック・アワードを受賞した「ジミー・コリガン」なんかは、コミックであってもそんじょそこらの小説が到底かなわない繊細さを誇る作品だし、「図書」と名が付いているからにはコミックがノミネートされたっていいじゃん、と思うんだけどね。

まあ1人のライターの意見として聞き流しとけばいいんだけど、彼が当のノミネートされた作品を読んでないと告白してるのは噴飯もの。批評のネタにとりあげるんだったら立ち読みくらいしとけよ。WIREDもずいぶんバカな奴に記事を書かせたもんだね。

ちなみに俺は「グラフィック・ノベル」という言葉がどうも好きになれなくて、これはその昔コミックがひたすら偏見を受けていた時代において、もうちょっとサエた名前をつけることでコミックがれっきとしたアートであることを表明しようとしたウィル・アイズナーが考案されたという由緒ある言葉だが(異説あり)、これってなんか「ふんどし」を「クラシックパンツ」と呼ぶような、別に恥ずかしがる必要もないのにカッコいい言葉の裏に隠れてるような気がしてしょうがないのです。おかげで最近は日本の映画雑誌なんかも「原作はアラン・ムーアのグラフィック・ノベルで…」みたいな文を書くようになったけど、別に「コミック」は「コミック」なんだって胸を張って言ったっていいじゃん。

6語で語る物語

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(英単語)6語だけでどんな話が作れるか、という興味深い企画をWIREDがやっていた

これはかつてヘミングウェイが「For sale: baby shoes, never worn (売ります:赤ちゃんの靴、未使用)」という話を自分の最高傑作だと述べていたことに基づくもので、いろんな作家に同様に6語で物語を作ってもらおうというもの。キルゴア・トラウト先生の「20語で語れるSF小説」よりも14語も少ないではないか!そしてそれに応えたのが、スタン・リーやロナルド・ムーア、マイケル・ムアコック、ニール・ゲイマンなどなど、実に俺好みの作家ばかり。ウィリアム・シャトナーなんてのもいる。

ただし立派な顔ぶれのわりにはウケを狙ったような作品が多く、不思議な哀愁と好奇心を掻き立てられるようなヘミングウェイの一品にかなうものはないかな。個人的にヘミングウェイって長編はキライで短編は大好きなんだけど、あの人の作品は短ければ短いほど俺にとってはいいのかもしれない。

そして寄稿された作品のなかで一番良かったと思うのが、アラン・ムーアの「Machine. Unexpectedly, I’d invented a time(した。偶然、タイムマシンを発明)」というやつ。こういう文章は凡人じゃ思いつかないすね。でも実はダレン・アロノフスキーがほぼ同じ内容のものを書いているのが興味深い。あとはフランク・ミラーの「With bloody hands, I say good-bye.(血まみれの手で、俺は別れをつげる)」とか、ハワード・チェイキンの「“I couldn’t believe she’d shoot me.” (”彼女が僕を撃ったなんて信じられない!”)」なんてのが優れていると思う。

逆にダメダメなのが、ウィリアム・ギブソンの「Bush told the truth. Hell froze. (ブッシュが真実を言った。世界の終わりだ)」というやつ。作家ならもうちょっとマシなの書こうよギブスン。まあ個人の好みの問題だろうけど。

俺は英語の「HAIKU」ってのがどうも好きになれないんだが、あの言語には俳句よりもこういう形式の文学の方が向いてるんじゃないだろうか。

なぜ「Cobain」を「コバーン」と記すのか

カート・コバーン、エルヴィス破りNo.1に」を見て10年来の疑問が蘇ったんだが、なぜ日本のメディアは「Cobain」を「コベイン」でなく「コバーン」と記すのか。人名は表記と発音が大きく異なる例があるとはいえ、レジデンツだって”Maybe if I put a bullet in my brain, they’d remember me like Kurt Cobain”と韻を踏んで歌ってるではないか。なぜ「コベイン」じゃないのか、誰か詳しい人教えてください。

「ウマ・サーマン」じゃカッコ悪いから「ユマ・サーマン」にしたように、もしかしたら「コベイン」というのは何かものすごくカッコ悪い響きがあるんだろうか。うーむ。