「The King of Kong:A Fistful of Quarters」鑑賞

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こないだのアカデミー賞ではノミネートさえされなかったものの、2007年最高のドキュメンタリーとの呼び名も高い作品「The King of Kong:A Fistful of Quarters」を観た。

これは「パックマン」や「ギャラガ」といった80年代のアーケードゲームでハイスコアを競い合う人々の世界を追ったドキュメンタリーで、そのなかでも「ドンキー・コング」の歴代記録をめぐって戦うビリー・ミッチェルとスティブ・ウィービーという2人のプレーヤーを中心に話は進んでいく。

ビリー・ミッチェルは80年代初頭から数々のアーケードゲームを制覇し、「ライフ」誌にも取り上げられ、1999年には「パックマン」のパーフェクトスコアを獲得して、「20世紀最高のゲームプレーヤー」としてナムコの会長である中村雅哉からも表彰された伝説のゲームプレーヤー。彼が1982年に出した87万点という「ドンキー・コング」のスコアは前人未到の最高得点であり、ビリーは長らく他のプレーヤーたちの尊敬の対象となっていた。

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ところがある日、ビリーの記録を破ったという男が現われる。彼の名はスティーブ・ウィービー。中学校の化学教師で家族思いの優しい父親である彼は、自宅のマシンで練習を重ね、100万点を超すハイスコアを達成したというのだ。

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しかしアメリカ全土のハイスコアを管理する団体「ツイン・ギャラクシー」の創設者であるウォルター・デイは素直にスティーブの主張(および彼が送ってきたビデオ)を信じることができなかった。スティーブが記録を達成したゲームの基盤が「ドンキー・コング・ジュニア」も遊べる基盤だったことや、ビリーと仲の悪い人物からスティーブが基盤を買ったことなどから、何か不正が行われたのではないかと疑ったのだ。

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スティーブの家へスタッフを送り、基盤を(強制的に)チェックさせるウォルター。この扱いにショックを受けるスティーブ。今までの彼の人生は、失敗と挫折の連続だった。自分が達成したハイスコアも、このまま認められずに終わってしまうのか?

こうなれば皆の目の前でハイスコアを達成するしかない。こう決意したスティーブはゲーム大会が行われているアーケードへと単身おもむき、観客の前で「ドンキー・コング」をプレーする。着実に点を重ねていき、ついに伝説のキル・スクリーン(メモリが容量いっぱいになり、マリオが勝手に死んでしまう面)へ到達するスティーブ。このときの彼のスコアは98万5600点。公衆の前で出されたスコアとしては最高のものであり、もはや誰もスティーブの腕前を疑う者はいなかった。勝利の喜びにひたるスティーブ。しかし彼の喜びは短いものだった。会場にビリーから1本のビデオテープが届けられる。そこには104万7200点という驚異的なスコアを稼ぎだすビリーのプレーが映し出されていた。スティーブのスコアはすぐに2位となり、再び涙を呑むスティーブ。

そしてそれから9ヶ月後、ギネスブックが「ドンキー・コング」のハイスコアを掲載しようとしていることを知ったスティーブは、もはや自分がナンバー1になるためにはビリーと直接対決するしかないと考え、ビリーの住む都市へと向かうのだが…。

なんか面白そうな話でしょ?「ドンキー・コング」で勝負する男たちの話、と聞くとずいぶん時代遅れでバガげてると思う人もいるかもしれないが、古いゲームということで今まで数多くの人がハイスコアに挑戦してきたわけだし、エミュレーターとかで遊んでみれば分かるけど、当時のゲームってゲームバランスなんてものが無いに等しいわけだから、その難易度は半端なものじゃないんだよね。

そして主人公2人の対比があまりにも素晴らしい。パリっとした服装で身をかためたビリー・ミッチェルは、頭がクラクラするくらいにデカい発言を繰り出してくる人物で、例えば「俺の(ゲームで登録する)3文字のアルファベットは何だか分かるか?俺を観てれば分かるだろう?そう、USAだ。俺はラテン諸国やカナダのプレーヤーとも勝負をしてきた。しかしUSAは彼らをおさえてトップにいなければいけないんだ」なんてことを真顔で言ってしまうのが違う意味でまたカッコいい。対して彼に挑戦するスティーブは極めて温厚な人物だが、ナンバー1の位置を狙うにあたってさまざまな障害にぶつかり、やがて彼本人が口にするように、これは「ドンキー・コング」の得点争いという枠を超え、現代社会において成功するとはどういうことなのかを表したドキュメンタリーになっていく。さらにはビリーの卑屈な手下や、スティーブがなぜここまで障害にぶつかるのか理解できない夫思いの妻など、非常にいい登場人物が揃ったことで、そんじょそこらの映画なぞよりも遥かにドラマチックな展開が楽しめる作品になっている。

もっともドキュメンタリーの常として、実際の出来事を歪曲して伝えているという批判も多いらしくて、例えばスティーブの前にもビリーの記録を破った人がいるという説もあるそうだ。ここらへんは「AVクラブ」におけるビリーのインタビューなどがなかなか興味深い。

本国では高い評価を得て、続編の話、もしくはフィクション映画化の話もあるそうな。そうなると「ゲームセンターあらし」みたいな内容になるのか?何にせよ偏見を捨てて観れば非常に楽しめるドキュメンタリーだと思う。

「Justice League The New Frontier」鑑賞

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観たぞ。非常に良い出来。

まず最初にこの「New Frontier」について簡単に説明させてもらうと、カナダ出身のライター/アーティストであるダーウィン・クックのミニ・シリーズ・コミック「DC: the New Frontier」を原作としたアニメで、原作は1950〜60年代を舞台に、いわゆるシルバー・エイジのスーパーヒーローたちの登場と、太古から存在する邪悪な存在と戦うために力を合わせる彼らの姿を描いた大傑作コミックなのであります。冷戦や核戦争の脅威、市民権運動といったあの時代のパラノイアを背景に、政府の圧力や自らの持つ力に戸惑いながらも正義のために活躍するヒーローたちが非常に巧みに描かれており、スーパーヒーロー・コミックの原点をきちんと表現することに成功した作品だと言えるだろう。

それが今回ダーウィン・クック自身もスタッフに加わってDVDムービー化されたわけですが、非常に原作に忠実な出来になっていて、コミックのファンも十分満足できる内容になっている。絵柄はコミックに比べてキャラクターの線がやや尖っている気もするものの、コミックのデザインをそのまま踏襲したものになっている。製作にはブルース・ティムも関わってるぞ。カイル・マクラクランやルーシー・ローレスといった比較的有名どころの俳優を使ったキャラクター・ボイスも違和感はなし。

不満があるとすれば原作が約400ページという長いストーリーのなかで時代の移り変わりとヒーローたちの成長を緻密に描いていったのに対し、アニメでは70分という尺の短さのためコミックのストーリーが大幅にカットされ、各キャラクターのシーンも短くて、全体的にせわしない感じが最後までするところか。原作のエッセンスはきちんとおさえているんだけど、もう20分くらい長くても良かったのになあ。あとキャラクターの内面を表すモノローグも一切使われず、すべての出来事がセリフで説明されるため、彼らが何を考えているのかが少し説明不足に感じられる所もあるかな。よって原作を読んでないと話の展開が分かりづらい所もいくつかあるかもしれない。もっとも原作もDCコミックスの歴史に通じてないと分からないところは多々あったけどね。冒頭のルーザースの冒険とか、準主役的な存在だったチャレンジャース・オブ・ジ・アンノウンの活躍がカットされてるのも大変残念なところ。ただし原作と違う展開になる部分(ハル・ジョーダンが火星行きのロケットに乗る場面とか)は意外とうまく描かれていて、ストーリーの短縮がプラスになっている点も多い。

マーヴェルが出しているカスのようなDVDムービーと違って、スーパーヒーローとそのヒロイズムがひしひしと感じられる作品。このアニメを観て興味を持った人はぜひ原作のコミックスも読んでみてください。コミックならではのダイナミズムがあってアニメ以上に楽しめる作品なので。

「赤い影」鑑賞

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こないだアカデミー主演女優賞を惜しくも逃したジュリー・クリスティーのおっぱいが拝める映画「赤い影」を観る(いや、別にそれが目当てではなかったのですが)。

「地球に落ちて来た男」や「マリリンとアインシュタイン」のニコラス・ローグ監督によるスリラー/ホラーで、幼い娘が川で溺死してしまった夫婦が、気分転換と仕事を兼ねてイギリスからヴェニスに移ってくる。そこで彼らは2人の老姉妹に出会うが、そのうちの1人は強い霊感を持った盲目の女性だった。彼女を通して死んだ娘と話すことができると信じるこむ妻。夫のほうは当初そんな話を信用しないものの、やがて彼の周りに奇妙な出来事が起きるようになる…。というのが大まかな話。この夫婦の妻を演じるのがジュリー・クリスティーで、夫はドナルド・サザーランドが演じている。やはりキーファーよりもドナルドだよな。顔の濃さが全然違う。

撮影監督出身のローグによる作品だけあって、物語のあちこちに象徴的なイメージや、話の手がかりになるような映像が散りばめてあるのが見事。場面の切り替わりの表現や、鏡の使い方なども非常に印象的なものになっていて、これらの映像が話の不気味さを何倍にも醸し出している。またヴェニスという異国の地における不安感と、迷宮のようになった町の描写も怖く、溺死した娘が来ていた服の色である「赤」が重要な象徴として効果的に繰り返し用いられ、これが衝撃的なラストに向かって雰囲気をどんどん盛り上げることに成功している。話自体は比較的単純だが、こうした映像のおかげで奥の深いものになっており、何度も鑑賞してやっと映像の隅々に隠されたモチーフやヒントに気づくような作品なんじゃないかな。個人的には盲目の女性が妻に語った「あなたの夫は能力を持っています。それは恵みでもあり、呪いでもあるのです」という言葉がラストになって大きな意味を持ってきたのが結構衝撃的だった。観たあとでもジワジワと怖さが感じられる映画。

例によってハリウッドではリメイクの話があるみたいですが、どうせまた「ウィッカーマン」みたいな失敗をするんじゃないのかね。

「007 カジノ・ロワイヤル」鑑賞

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何気にボンド映画はすべて観ているのであります。フランチャイズをうまく再始動させたということで巷では高い評価を得ているようだけど、これそんなに面白い作品かあ?

結局のところ007って高級車を乗り回して美人のおねーちゃんたちをはべらせつつ、世界をまたにかけた活劇を繰り広げる男という、世俗のサラリーマンなら誰もが憧れることを具現化した存在であって、それが変に人間臭くなっても嬉しくないと思うんだが。確かに後期のブロスナン作品は007が単なるカリカチュアに成り果てていたし、アクション映画になりすぎてランボーよろしくマシンガンをぶっ放す姿は興ざめだったが、それから離れて原点に戻るにしても、ボンドをボンドたらしめていたものを変に取り外してしまうのはどうかと。単に俺の考えが古いだけなのかな。観てて不満に感じた点をざっと挙げると:

・ボンドが弱い
・ル・シッフルがさらに弱い
・ボンド・ガールが最後にXXXしてしまう
・スパイ・ガジェットが殆どない
・ボンドのウィットに富んだセリフがない
・マニーペニーがいない

などなど。まあ保守的なファンの不満ですかね。あとボンドガールに本気で恋してMI6を辞めようとするのも情けない。ショーン・コネリーのボンドの素晴らしかったところは、女性と寝ててもいつ彼女を見捨てるか分からない冷酷さを秘めていた点で、女性蔑視と言われようが、その危険な雰囲気を持った姿に観ている人はシビれたわけです。でも冷酷なボンドというのはもう時代に合わないんだろうな。

この作品を見てて思ったのは「死ぬのは奴らだ」に似てるな、ということ。あれもロジャー・ムーアが初めてボンドを演じたことで、従来のイメージを払拭するため、好みのドリンクの設定を「シェイクしたマティーニ」ではなく「氷なしのバーボン」に変えたりしてたわけだが、結局のところ観客が求めてるのはシェイクしたマティーニを飲むボンドであって、今回のダニエル・クレイグ演じるボンドもいずれは従来のボンド像に近づいていくのかな。

まあ大ヒット作品となったことから察するに、多くの人はこの新しいボンドを歓迎したわけだが、個人的には昔のほうが良かったなと思わずにはいられないのです。

「断絶」鑑賞

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アメリカン・ニューシネマの隠れた名作として知られる(らしい)、モンテ・ヘルマン監督の「断絶」(1971)を鑑賞。

物語としての情報を、最低限のもの以外は徹底的に切り落とした虚無的なロードムービーで、登場人物たちにも名前が与えられておらず、クレジット上ではただ「運転手」とか「メカニック」などと表記されるのみ。彼らの経歴や年齢などについても一切説明はなく、ただロードレース、および路上を走ることだけにとりつかれた男たちの姿を追っている。英語でいえば「zen-like」な作品ということになるのかな。

運転手とメカニックが東海岸を目指してチューンアップしたシェビーを走らせ、途中で家出少女を乗せてやり、それからウォーレン・オーツ演じるGTO乗り(その名もずばり「GTO」!)とお互いの車を賭けてワシントンDCまでのレースをするというプロットはあるんだが、じゃあ血湧き肉踊るレースが展開されるのかというとそうでもなく、両者(両車?)のあいだには微妙な仲間意識が生じて互いに手を貸してやるようなことになったりもする。要するに運転手もGTOも路上を走ることにだけ生き甲斐を感じており、レースはその一環でしかないのだ。

運転手を演じるのは若き日のジェームズ・テイラー。今じゃハゲの穏健そうなシンガー・ソングライターとして知られる彼だが、この頃は長髪にタイトなジーンズが似合っていて非常にカッコいい。メカニックを演じるのはビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソン。若くて熱意をもった彼らに対して、オーツが演じるGTOはいい年になっても車上生活をやめることができず、ヒッチハイカーは必ず乗せてやって自分の身の上話を聞かせるという孤独さが出ているのが興味深い。しかもその身の上話は毎回すべてウソなので、結局のところ彼が何者なのかはまるで分からないのだ。あとハリー・ディーン・スタントンのオヤジもちょこっと出演してるぞ。

視聴者に与えられる情報が徹底的に少ないので、観る人を選ぶ作品であることは間違いない。話の展開はそれなりにあるものの、いかんせん全てが淡々と語られていくため冗長的に感じられるところもあるんだよな。アメリカン・ニューシネマの隠れた名作だったら個人的には「グライド・イン・ブルー」のほうが遥かにお勧めだが、それでも一見の価値はある作品かと。あとヘルマン&オーツといえば、ロジャー・コーマンのもとで作った「コックファイター」をぜひ観てみたいんだよなあ。