LIFE AQUATIC WITH STEVE ZISSOU


ウェス・アンダーソンにとって、ケヴィン・スミスの「ドグマ」もしくは「ジェイ&サイレント・ボブ 帝国の逆襲」やリチャード・リンクレーターの「ニュートン・ボーイズ」あたりに相当する作品。つまり低予算で批評家にウケのいい作品を撮っていた監督が、それなりの予算をもらって大衆狙いの作品を撮ったら、かつてのキレがなくなってコケたというパターン。まあ多くの監督が通るイバラの道ではあるのだが。キャストが豪華という点では前作「ロイヤル・テネンバウムス」が既にそうだったが、今回は調査船ベラフォンテ号のセットや大海原での撮影、海賊との銃撃戦などいろいろ金をかけておきながら、それらが作品の出来に貢献してないところが残念。

ストーリーの内容は親友をサメに喰い殺された海洋学者スティーブ・ジッスーが周囲の反対も気にかけず、自分のクルーおよび初対面の息子とともにサメへの復讐へ乗り出す…というもの。今までのアンダーソン作品同様にあまり確固としたプロットは存在しておらず、シュールな話がひたすら続いてくような感じになっている。主人公を演じるのはアンダーソン作品の常連ビル・マーレイ。彼の息子役はこれまた常連のオーウェン・ウィルソン。他にもケイト・ブランシェットやウィレム・デフォー、ジェフ・ゴールドブラムといった豪華な面々が出演している。

このようにキャストが豪勢で予算があって監督が有能なのに、何で「ライフ・アクアティック」の出来がダメなのかというと、ひとえにアンダーソン作品の特徴であった悲壮感とコメディの絶妙なバランスが今作ではズレまくってるところにある。今までの彼の作品の父親像(「天才マックスの世界」のビル・マーレイや「テネンバウムス」のジーン・ハックマン)は人生に疲れ果てた物悲しい存在でありながらもどこか常人離れした滑稽な雰囲気を醸し出していたが、今作のビル・マーレイは単に気難しいオヤジになり下がっており、そんな彼が生半可に喜劇的なシチュエーションに置かれるものだから行動すべてが変に空回りしているように感じられてしまう。特に人が撃たれたり斬られたりしてる海賊との戦闘シーンで変に笑いをとろうとしているのは、観ててかなりキツいものがあった。脚本にオーウェン・ウィルソンが今回は参加してないのが失敗の理由か?

あとアンダーソンの作品といえば絶妙な楽曲の使い方が1つの特徴になっているが(「マックス」のフェイセズとか「テネンバウムス」の「ルビー・チューズデイ」とか)、今回はセウ・ジョルジ(本人出演)がポルトガル語で歌うデビッド・ボウイの曲に重みをおきすぎたせいか、全体的にぴりっとしない選曲になっているのも残念。

ここまでいろいろ批判的なことを書いてきたが、あくまでもアンダーソンの前2作に比べての個人的な評価であって、決して水準以下の作品というわけではないと思う。観てて面白い部分はたくさんあるし、「バカルー・バンザイ」そのまんまのラスト・クレジットにも笑えた。本国ではあまり良いとは思えない評価と興行成績を得た作品だが、これをバネにしてまた傑作を撮ってくれれば、それなりに意義のある作品として記憶されるのではないか。

ホテル・ルワンダ


「ホテル・ルワンダ」を劇場で観た。

1994年に起きたルワンダでの虐殺(被害者数は推定100万人)については大した事実を知らないので偉そうなことは書けないが、虐殺の対象となった人々の不安や、彼らを救おうとする主人公の奮闘が力強く表現された良作である。

ベルギーの統治時代(あるいはそれ以前)から続く積怨により、多数派のフツ族によって「ゴキブリ」と呼ばれながら虐殺されていくツチ族。国連軍は虐殺を目の当たりにしながらも規則に縛られて何一つ行動できず、西洋諸国は早くから無視をきめこむ。そんな中でフツ族の難民を抱え込むことになったホテルのマネージャーである主人公(ドン・チードル)は軍人を買収したり、西洋社会に嘆願をしたりして妻を含むツチ族の人々を守ろうとしていく。実話同士を比べるのは失礼かもしれないが、主人公の行動は「シンドラーのリスト」のオスカー・シンドラーとダブるところが多分にある。また記者を含む外国人が国外退去させられ、現地人が何の助けもないまま取り残されるさまは「キリング・フィールド」によく似ていた。「キリング〜」は変に白人中心の観点がムカついた作品だったが、本作品はあくまでもルワンダの人々が中心に描かれている。ちなみに主人公にずいぶん同情的な国連軍の中佐をニック・ノルティが演じているが、彼だけは架空のキャラクターらしい(カナダ人の将校がモデルだが)。

戦乱時にあっても物資を購入し、軍人を買収できるだけの財力が主人公にあったのは、彼が西洋社会(特にかつての支配階級であるベルギー)の「よき部下」だったからだ、というのは少し皮肉めいている。しかし彼は西洋社会でのコネを利用して、自国の惨状を世界に知らしめようとしていく。フツ族の政府軍の背後にフランスがいるため、ベルギーを通じてフランスに窮状を訴えるところは興味深かった。あくまでも高級ホテルが舞台なので悲惨な状況でも変に優雅な雰囲気があり、あまり虐殺の凄まじさが描かれていない(つまりハリウッド色が強い)という批判もあるかもしれないが、そこらへんは虐殺を扱った他の作品(「Sometime In April」など)に期待しよう。

アカデミー賞では軽視された感のある作品だが、「ミリオンダラー・ベイビー」よりずっと面白かったと思う。

コンスタンティソ

原作の大ファンなので「コンスタンティン」を観に行く。駄作であることを確認するために行ったのだけど、やはり期待は裏切られなかった。マチネー公演で4.25ドルという破格の値段で観れたのがせめてもの救いか。 ニール・ヤングがコンサートをやるというんで見に行ったらポール・ヤングが出てきた、というような感じの映画。キアヌ・リーブス演じる主人公ジョン・コンスタンティンは、俺が愛する原作コミック「HELLBLAZER」の主人公ジョン・コンスタンティンとは似ても似つかぬキャラクターなので、今後は区別のためにキアヌ版を「コンスタンティソ」と呼ぶことにする。

原作は15年以上も続いてる人気シリーズだが、主人公のコンスタンティンはまず何よりも「イギリス人」である。しかも金髪で(モデルはスティング)、ヒーローというよりもトリックスター的なふざけた奴で、みすぼらしい三枚目といったタイプなのだ。オカルトには精通しているものの魔法が使えるわけではなく(彼の能力は意図的に謎めいたものになっている)、腕に変なタトゥーもないし、十字架まがいのカッコ悪い機関銃を持って悪魔と戦うようなこともない。つまり映画のカリフォルニア製コンスタンティソとはまったくの別人なのだ。ここまでキャラクターの設定を変えるなら、コミックを原作にせず完全にオリジナルの作品にしたほうがマシだったろうに?
さらには彼の相棒であるチャズは原作だとコンスタンティンの幼なじみで、オカルトに無縁の気のいいタクシー運転手だけど、映画では黒魔術に憧れる若造になってしまっている。コンスタンティンが別物になるというのは事前から話は聞いてたけど、チャズがあそこまで小生意気な奴になるとは知らなかったので、俺は本気で怒りましたよ。

こうなると麦茶をウイスキーだと言われて差し出されたようなもので、何を期待していいのかまるで分からなくなってしまったが、肝心の映画の内容も何だかどうでもいいようなものだった。まあ典型的なホラーがかったアクション映画で、それなりに見所のある特殊映像なんかもあるものの、原作のファンとしてはどうしてもコンスタンティソの行為すべてに違和感があり、話に集中できず十分に楽しめなかった次第である。しかも変なところで原作そっくりのシーンが登場したりするんだもんなあ。それに原作のコンスタンティンは天国も地獄も嫌ってるような孤独な人間だけど、映画版では死後に迎え入れてもらうため天国に「媚びる」奴になっていたのには失望した。あとラストシーンのコンスタンティソの行動にも激怒したけど、エンドロール後の「おまけ」にもかなりムカついたので、エンドロールが始まった途端に劇場から悪霊のごとく退散することをお勧めします。

原作はもっと大人向けの洗練されたホラーなんだから、アクション映画でなくもっとオフビートの内容にすればよかっただろうに…。「シックス・センス」みたいな。DCコミックスはワーナーが親会社である都合上、どんなコミックでも大衆向け娯楽作品に映画化されてしまうのが痛いところか。頼むから他のヴァーティゴ(DCコミックスの大人向けレーベル)作品を映画化するときは、もっと原作に忠実に作ってくれ。

本編開始前にリチャード・リンクレイターの「暗闇のスキャナー」のトレーラーが流されてたが、「コンスタンティン」もどうせ同じキアヌを主人公に持ってくんだったら、「スキャナー」同様にロトスコープによるアニメ風のスタイルにしたほうが原作らしくなったかも。

In the Realms of the Unreal

7人の無垢な美少女ヴィヴィアン・ガールズを主人公に、キリスト教国家のアビエニアと悪の侵略者グランデリニアの戦いを描いた絵物語「非現実の王国」を延々と延々と描いていった男、ヘンリー・ダーガー(ダージャー)に関するドキュメンタリー。監督はアカデミー賞監督のジェシカ・ユー。最近は映画界でなぜかダーガーが流行ってるらしく、「ラスト・サムライ」の監督とかも伝記映画化を狙ってるとか。ちなみにタイトルロゴはクリス・ウェア。

昼間はシカゴの病院で清掃員として黙々と働き、夜はせっせと「非現実の王国」の執筆に何十年もとりかかっていたダーガーの行為は隣人などにも知られることはなく、彼が他界したときに初めてその膨大な作業の実態が明らかになった。正規の芸術教育を受けていない彼が、広告のイラストなどをトレースするという自分なりの表現方法で描きつらねていった作品群はその独創性が高く評価され、いわゆる「アウトサイダー・アート」の傑作として世界中に知られるようになっていった…。と書けばカッコいいだろうが、キチガイオヤジが残したお絵描きの山を後世の人が勝手に褒めてるだけ、という意地悪な見方ができなくもない。だって男性器を生やした少女たちが石像に首を絞められて窒息したり、四肢を切断され内臓を引き裂かれて地面に転がってるような絵(しかも小学生レベル)を何枚も描いてるような人って、絶対にマトモではないと思うんだが?しかし雲の描き方や色使いは非常に良いと個人的には思う。 映画自体は普通のドキュメンタリーのスタイルをとっており、彼の生い立ち(孤児院で育ち、周囲に溶け込めなくて…という典型的なパターン)や生前の彼を知る人たちへのインタビューなどによって構成されている。数多くの資料を集め、彼の実像を明確に描こうとする熱意は伝わってくるものの、なんせアーティストとしての彼の側面を知っている人が誰もいないために、彼がなぜあのような作品を描くことになったのかを深く掘り下げていないのが残念なところである。ダーガーへの入門編としては適切な内容だろうが、この映画を観にくるような人なんてダーガーのことはそれなりに知っているだろうに。何種類もの声色を使ってよく1人で会話していたとか、里親になる申請を何度も出していた(もちろん毎回却下)といった“ちょっといい話”はよく紹介されるけど。あと彼の絵をアニメにして見せる手法は、確かに「非現実の王国」のストーリーを理解するのには便利なんだけど、登場人物にこだわりすぎて絵の全体的な構成を映したショットが少なかったのも不満に感じた。

監督はかなり以前からダーガーに入れ込んでいたらしく、この映画では彼が徹底的に美化されているような感じがするのだが、美化しようとすればするほど彼の稚拙すぎるアートとズレが生じていってしまい、見ているうちにシラケ気味になってしまうのも確かだ(事実、館内からは苦笑が聞こえてた)。ダーガーの美化の手段として、監督は彼がいかに敬虔なキリスト教徒であったかを、十字架やキリストなどのショットをふんだんに使って強調しようとするのだが、敬虔なキリスト教徒だって頭のおかしい人はたくさんいると思うんだけどねえ。あとナレーションをダコタ・ファニングがやってるのも何かあざとい感じがした。実際のところ、あのような絵を描く人に興味がある客というのは、純粋に美術的な興味というよりも「フリークショーを見に行きたい」といった程度の興味を持ってる人が大半じゃないの?結局ダーガーが何を表現したかったのかということは、この映画を見た後でも謎のままである。

ターネーション

超低予算の作品ながらサンダンスなどで話題になったドキュメンタリー。ガス・ヴァン・サントとジョン・キャメロン・ミッチェルがエグゼクティブ・プロデューサーなので、この監督2人の作品が好きな人なら、かなりツボにはまるかもしれない。 監督そして物語の主人公はニューヨーク在住の役者ジョナサン・カウエット。彼の母親レネーは幼いときにモデルとして活躍するほどの美貌をもちながら、とある事故がきっかけで両親の要望によりショック療法を繰り返し施され、そのおかげで精神が不安定になったまま大人へと成長する。親元を離れた彼女は結婚をするがすぐに離婚、その後にジョナサンをもうけるものの彼女の精神はさらに悪化。ジョナサンは施設に預けられるがそこで虐待を経験することとなる。それに加えて母親の友人にもらったドラッグにより精神に異常をきたした彼は、ゲイのコミュニティーと映画製作と役者稼業に心の平穏を見いだしてニューヨークへ移り、自分の存在さえ知らなかった父親に対面したり、母親と親密になる機会を持ったりするが、やがて母親がリチウムの過剰摂取で倒れたことを知り、故郷のテキサスへと向かう…というのが大まかなストーリー。虐待・心の病・疎外感などに溢れた哀しい物語が、過去の8ミリ映像や写真の絶妙なコラージュとともに美しく語られていく(流れる音楽も最高)。
かつての美貌を長く苦しい生活により失い、最後はリチウムのために脳障害を起こして無邪気に笑う母親、温厚そうに見えるけれども過去にレネーを虐待しており、年をとってボケていく祖父母、そしてパンク・ロックとアングラ映画に自分のアイデンティティを見つけようとするジョナサンの映像が心を打つ。起承転結の明確な話ではないので冗長に感じられる部分もあるが、非常に印象的な作品であることは間違いない。

ただ個人的には、もとから内容に興味があって観に行ったわけでは決してなく、この作品の(最大の?)ウリとしてアップルの無料映画製作ソフト「iMovie」で全編が作られたということに興味を抱いたのだ。
プロ向けのFinalCutなどに比べれば性能が著しく劣るiMovieだが、その映像エフェクト(特に「Nエフェクト」や「ミラー」)をこの作品は効果的に駆使して、とても素人向けのソフトで作ったとは思えない映像加工や編集に成功している。ジョナサンは友人のマックで地道に製作を行ったらしいが、カメラとマックさえあれば劇場映画が作れる時代になったわけだ。iMovieに詳しい人なら「あ、今のはXXのエフェクトだ」とか「このシーンはまずフラッシュをかけて、それからスピードを遅くして撮ったな」などと観察するのも面白いかと。ただ細かい点を挙げると、iMovieでは出来ないはずの画面分割エフェクトが使われているし、スカイウォーカー・サウンドでの音声ミックスなどのポスト・プロダクションも行ったようだから、一番始めにiMovieで作られたものとは内容が違っているようだ。もちろん映画のストーリーには何の関係もない事だけど。