「FOR MADMEN ONLY」鑑賞

個人的に興味深いドキュメンタリーを観たので、忘備録的に感想を書いておく。

インプロビゼーション・コメディ(即興コメディ)の草分けとして知られるコメディアン、デル・クローズの生涯を紹介したもので、俺もこの人については全く知らなかったのだけど、ビル・マーレイやボブ・オデンカーク、ジョン・ファブロー、アダム・マッケイ、ティナ・フェイ、エイミー・ポーラーなどといった現代のアメリカン・コメディを代表する人々の多くは彼の教えを受けて育ったのだそうな。

カンサス出身のクローズは若くして家を出て、セントルイスでマイク・ニコルズやエレイン・メイなどと一緒に即興劇団で演じるようになるが、ニコルズとメイが売れてニューヨークに移ったために、それからシカゴを経由してサンフランシスコに移る。そこの即興劇団「ザ・コミッティー」において長時間に渡る即興コメディを発明し、それを「ハロルド」と名付ける。それからシカゴの有名なセカンド・シティでジョン・ベルーシなどをコーチするものの、彼らは「サタデー・ナイト・ライブ」に引き抜かれてしまう。酒もドラッグもやってた破滅型芸人であるクローズはセカンド・シティの管理人とケンカしてトロントのセカンド・シティに移り、そこでジョン・キャンディやリック・モラニスなどの教師になる。そこでも周囲とケンカして一時期は精神病院に入ってたらしいが、こういうのはどこまで信用していいのか分からんね。そしてシカゴのインプロブオリンピック・シアターでティナ・フェイやエイミー・ポーラーなどにインプロビゼーションを教えていたそうな。

クローズはシアターの教師だけでなく「フェリスはある朝突然に」などといった映画にも役者として出演しているほか、80年代には「スーサイド・スクワッド」の作者として知られるジョン・オストランダーと組んで「WASTELAND」というユーモア・コミックをDCで執筆していたそうな。18号が出されたという「WASTELAND」、寡聞にして全く知らなかったのだけど、デビッド・ロイドやティム・トルーマンなどといったアーティストがクローズの伝記的な物語を描いていたらしい。いままで単行本にまとめられたことはないらしいが、結構興味あるな。

やがてクローズは体にガタが来て1999年に64歳で亡くなってるが、直前にビル・マーレイが前倒しで誕生パーティを開催してあげたらしい。マーレイ、いい人じゃないの。

ドキュメンタリー自体はクローズのアーカイブ映像のほか、オデンカークやオストランダーといった生前の彼を知る人たちのインタビューで構成されている。「WASTELAND」の画像もふんだんに挿入されていて、コミックのコマとオストランダーのインタビューが狂言回しのような役割を果たしているかな。さらにクローズやオストランダー、DCの編集者のマイク・ゴールドたちのやりとりを役者が演じる再現シーンも含まれていて、クローズ役を演じるのはジェームズ・アーバニアク。彼は「アメリカン・スプレンダー」ではロバート・クラムを演じてましたね。

インプロビゼーション・コメディとアメコミという、実にニッチなジャンルを取り扱ったドキュメンタリーなので万人向けではないだろうが、俺みたいなどっちも好きな人には大変面白い作品でございました。クローズが確立した「ハロルド」は3つのシチュエーションが3つのシーンに渡って演じられるうちに互いのシチュエーションが入り混じっていく、という複雑な構成をもったインプロビゼーションらしい。説明を聞いてもよく分からないので、ぜひこの目で実演を観てみたいものです。

「ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ」鑑賞

かなり期待しないで観に行ったつもりだが、やはりダメだったでござる。以降はネタバレ注意。

カーネイジが登場することは前作のラスト、というかヴェノムの映画が作られた時点で確定路線だったのだろうが、おれあのキャラ嫌いなのよな。元来ヴィランだったヴェノムが1990年代初頭に、当時のグリム&グリッティなコミックの流行に乗って人気が出たために「リーサル・プロテクター(劇中でも言及されてましたね)」としてのアンチヒーロー的な立場になってしまい、ヴィランとして使えなくなったので代わりに登場したのがカーネイジ。当時の流行を反映した残虐キャラで、あまり深みのあるキャラでは無かったと思うが当時のマーベルは大々的に売り出して、12パートのストーリーライン「MAXIMUM CARNAGE」とか打ち出してたけど長いだけでグデグデになってた覚えが。このバブル末期的なイベントが、数年後のマーベル倒産の予兆だった、と見なすのはそんなに間違ってないと思うのです。

んで映画の方はちょっと不思議な構造をしていて、こういうスーパーヒーローものというかアクション作品の続編って、とくにバディ要素がある場合、以下のような話の流れが黄金パターンになってると思うのです:

  1. 前作で手に入れたパワーを使って主人公と相棒がノリノリで活躍する
  2. その裏で新たな敵が登場する
  3. その敵と主人公が遭遇、主人公が負ける
  4. 主人公が苦悩する、あるいは相棒とケンカする
  5. 主人公が自身を見つめ直して成長する、あるいは相棒と仲直りする
  6. 敵を打ち負かす

それに対してこの映画は上の3〜5くらいの部分が抜けてるというか、エディ・ブロックとヴェノムのバディ漫才が長々と続いたのちに、彼らの仲直りもしっかり描かれないまま、いきなりカーネイジと「初対面」してそのまま最終決戦になる流れに驚いてしまったよ。これクリーシェを破っているというよりも、脚本の練り込みが足りないのでは。今回はトム・ハーディが初めて脚本にも関わったらしいが、それが影響してるのかなあ。

監督のアンディ・サーキスも役者としてはすごい人だけど、過去の「ブレス しあわせの呼吸」などから察するに監督としての腕はそこまでではないと思うのですよね。エディとヴェノムが体をシェアしたまま話をする際のセリフがやたら多くて、もうちょっと整理しても良かったのでは。出演者はやはりスティーブン・グレアムの出番がもっと欲しかったな。あとウディ・ハレルソンとナオミ・ハリスが幼なじみを演じるには歳が離れすぎてるのでは。

90年代のコミックでよく覚えてる「ビーチでくつろぐエディ・ブロック」という実にマイナーなシーンまで映像化したのは評価するけど、やはりね、もうひと捻り欲しい作品だった。

「ZOLA」鑑賞

みんな大好きA24が今年配給した映画。ゾーラ・キングという女性が実際にフロリダで経験したという一連の出来事をツイッターで148連投(!)したところバズって、「ローリング・ストーン誌」の記事になって、それがこの映画の元ネタになったものらしい。

デトロイトのレストランで働いていたゾーラは、客として来ていたステファニと意気投合し、彼女に誘われてフロリダのクラブでストリッパーの仕事をして一儲けを計画する。ステファニの彼氏のデレク、および彼女の友人の「X」とともに車に乗ってフロリダに到着したゾーラだが、Xは実はステファニのポン引きであり、ストリッパーだけでなく売春の仕事をゾーラとステファニに強制してくる。最初は断ったゾーラだが、Xに脅されて仕方なしに客の待つホテルにステファニとともに向かうことに…といったあらすじ。

上記のローリングストーンの記事によるとXのモデルになった人物はのちに人身売買の容疑で逮捕されてるようで、話の展開はサスペンス的ではあるものの、映画の作りはもっと「アフター・アワーズ」みたいな夜のドタバタを描いあブラックコメディっぽいものになっている。35ミリフィルム(たぶん)で撮影された映像にレトロなフォントが乗っかるオープニングなんかは70年代のブラクスプロイテーション映画を彷彿とさせるものの、その一方でツイッターの送信音や通知音が鳴り響くモダンさ。時たまデジタル撮影した映像が挿入され、登場人物が第4の壁を破ってカメラに話しかけたりもして、これぞアート映画!という香りがプンプンしてます。そういうのが苦手な人にはダメな映画かも。おまけに音楽はミーカ・レヴィだぞ。

さらにローリングストーンの記事によると実際のゾーラによる一連の出来事の供述と、ステファニのモデルとなった人物の証言もまた食い違ってるそうで、劇中でも突然ステファニが自分なりの解説を始めたりするものの、基本的にはゾーラの視点で物語が進んでいく。なんかいろんな演出を劇中で試して、それがすべて成功している、というわけではないような。

監督のジャニクザ・ブラヴォーって知らなかったが今後いろいろ活躍するかもしれない。ゾーラ役にはテイラー・ペイジでステファニ役にライリー・キーオ。ふたりのビッチなやりとりも面白かったが、X役のコールマン・ドミンゴの威圧的な演技がいちばん良かったかな。

観た後に何かが残るような作品でもないが、試みとしては野心的で悪くないというか。おそらく今後も「ツイートを映画化」という作品が(日本でも)出てきそうな気がするけど、これくらいの出来を目指さないといけないよという1つの試金石的な作品となるのではないでしょうか。

「エターナルズ」鑑賞

思ったことを雑多に書いていく。以降はネタバレ注意。

  • 個人的に原作コミックにあまり思い入れはない。ジャック・カービーの作品としてもキャリア的にどちらかといえば後期のもので、60年代〜70年代前半に狂ったようなペースで名作を創出していたのに比べれば少しトーンダウンした作品、という印象があるかな。
  • いきなり話はずれるが、ジャック・カービーの神話というか神に対するアプローチは非常に興味深いものがあって、「ソー」は北欧神話のアスガルドの神々をSFテイストを加えて描き、それらの神々にとって代わる新しい神々としてユダヤ教の影響が色濃い「ニュー・ゴッズ」をDCで作った。そのあとインカ文明のアートの影響を受けつつ「エターナルズ」を創作した、ということになるのかな。キャリアを通じて神とは何か、を問いただした作家であった。
  • 原作の「エターナルズ」の重要なキャラクターはやはり、人類を裁くために地球にやってきた巨大な創造主ことセレスティアルズだが、映画版では話をもっと人気的なスケールにするためかセレスティアルズは1〜2体しか登場せず、エターナルズにより焦点をあてた内容になっている。まあ超巨人が世界中を跋扈するような話だと、ほかのMCU映画との兼ね合いが悪いのでしょうな。
  • 主人公となるエターナルズの性別とかオリジン話も原作からいろいろ改変されてて、まあそんなものでしょう。原作の「心正しいエターナルズは美男美女ばかりで、邪なデヴィアンツは醜い欠陥品ども」という描写がなんか優生思想のようで好きにはなれなかったのだけど、映画では幸か不幸か心を持たない獣のようになっていて、安心して叩ける悪役になっておりました。いかにもCG、というキャラクターデザインは好きじゃないけどね。
  • 予告を観たときは多くの登場人物がいろんなアクセントでなんか気になったけど、実際に本編を観たらさほどではなかった。というかマ・ドンソク(ギルガメシュ)は英語上手だね!それに対してイカリス役のリチャード・マッデンが終始スコットランド訛りで話すのだけは気になって仕方なく。何千年も一緒にいたという人たちなのに、なぜ一人だけ違う訛りで話すのだろう。

ここからは技術的な話になるが、監督のクロエ・ジャオって、アカデミー賞を獲った前作「ノマドランド」から察するに(「ザ・ライダー」は未見)、自然光での撮影が好きで(特にマジックアワー時)、小人数の親密な会話シーンを得意とする監督である。それは冒頭、エターナルズが登場するのも陽の傾いた荒野であることから明らかだろう。しかし今作は大人数の出てくるアクション大作であって、監督の得意とする分野とは正反対のものではないのか。戦闘シーンも夜や暗い森のなかで行われていて、あまり照明が当てられてないから暗くて展開がよく分からないの。最後も舞台は無人島なのにわざわざ洞窟に入ったりして、明るいところで戦え!と思ってしまったよ。グリーンスクリーンを嫌ってロケーション撮影を行ったらしいが、それにCGの怪物とかエフェクト加えてたらあまり意味がないのでは。

キャストにしてもマ・ドンソクに加えてジェマ・チェンやクメール・ナンジアーニ、バリー・キオーガンといった多様な人々をハリウッド大作で揃えたのはすごいと思うし、それぞれが優れた役者なのだけど、皆が揃ったときのやりとりがなんかよそよそしいというか、ケミストリーが感じられなかったのは俺だけ?致命的なのがアンジェリーナ・ジョリーの役で、確かに精神的に不安定で近寄りがたい設定だとはいえ、明らかに他の役者と噛み合ってなくて、最後まで「場違いの映画に出た大女優」という雰囲気だったのが残念。サルマ・ハエックはもっと噛み合ってたのに。

あとはストーリーも、セレスティアルをアレすることで結果的にああなるのでは、というジレンマが結局解消されなかったし、冒頭で「私はウソを見抜ける」と豪語していた人が仲間のウソを見抜けなかったりと、なんかモヤモヤするものが残る内容でありました。

聞いた話ではクロエ・ジャオってマーベルのファンで自らこの作品をピッチしたそうだし、決してマーベル作品に不向きということではないと思うのですよね。その一方でこの作品はクロエ・ジャオが監督する必要はなかったのでは?と思わずにはいられなかった。マーティン・キャンベルが「グリーン・ランタン」を監督した際のミスマッチ感のようなものか。クレジット後の映像も「あんなキャラ出すの?」という感じだったし、「エンドゲーム」後のマーベル映画はちょっと方向性が不明瞭な印象を蹴るけど、いずれどこかで気を引き締めて、セテスティアルズが勢揃いするような大クライマックスが展開されることを期待します。

「THE SHOW」鑑賞

自分のコミックの映画化はことごとく貶していたアラン・ムーア先生、ついに自ら脚本を書き上げたのでございますよ。以降はネタバレ注意。

ムーア作品なので舞台は当然の如くノーサンプトン。そこに潜伏しているらしいジェームスという男を探しに、フレッチャーという探偵が街へとやってくる。しかし前日にジェームスはパブの階段から落ちて死んでいた。彼が持っていたネックレスをフレッチャーは探していたのだが、ジェームスの死体には見当たらなかったことからフレッチャーはノーサンプトンに滞在して捜査を続けることにする。そして彼は街の奇妙な住人たちに次々と出会っていく…といったあらすじ。

以前に公開された「SHOW PIECES」の続編というか本編的な扱いだが、あっちを観てなくても大丈夫、というか全部観ててもストーリーが分からないっす!まあ短編でいろいろ意味不明だった点についてこちらで一定の解答が出されていて、それについては満足する結果にはなっていたが。ジャーナリストのフェイスは死んだわけではなく臨死体験をしていて、一方のジェームスは実際に死亡している、彼らの辿り着くナイトクラブは一種の地獄のようなところで、夢の中からも行くことが可能、ということで良いのかな?

そのナイトクラブにまつわる過去などをフレッチャーは探っていくのだが、そこで彼が出会う街の住人が、2人組の少年探偵や覆面ヒーローでもある図書館司書、ヒットラーまがいの格好をして歌うミュージシャン、などと奇人変人ばかり。皆が話に大きく関わってくる訳でもなくて、あなた何やってるの?という人もいますが、まあそういうものなのでしょう。

部外者が街にやってきて街の過去を調べるうちに奇妙な出来事に遭遇する、という展開はこんど邦訳の出るムーアの「プロビデンス」に似てなくもない。新聞の見出しや街中に貼られたフライヤーなどにもいろいろネタが仕込まれてるのは「リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン」っぽいし、70年代に名を馳せたギャングが出てくるのはLOEGの「Century」第2作目を連想させました。映画としての雰囲気はデビッド・リンチの作品に近いかな、と思ったけど必要以上にノーサンプトンのトリビアをぶち込んできてる点はジョン・ウォーターズのボルチモア愛に通じるものがありますね。

ライターが脚本を務めた作品の常としてセリフの量がやたら多いけど、説明口調のセリフは少なくて次々と謎が出てくる感じなので飽きさせない。ムーア先生は脚本を担当しただけでなく、忘れられたコメディアンであり上記のナイトクラブの主であるメタートン氏としても出演し、お月様のようなすんごいメークをしていちばん美味しい役を演じてます。さらにサントラでも使用されてる曲の半分くらいは彼が作詞していて、どこをとってもムーア印の作品でした。スーパーコピー

監督は「SHOW PIECES」も含めて、ここ最近ムーアといろいろ組んでいるミッチ・ジェンキンス。いかにもデジタルビデオ撮影したようなスタイルは個人的にあまり好きではないけれど、今回は予算が潤沢になったおかげか「SHOW PIECES」のときと比べて凝ったショットも増えて、映像作品としてずっと面白くなっていたな。主演のフレッチャーを演じるのは「私立探偵ストライク」のトム・バークで、その他の役者は「SHOW PIECES」から続投している人が多かった。

正直なところアラン・ムーアの独りよがりの作品になりそうな気がしてあまり期待はしてなかったのだけど、きちんと娯楽作品としてのツボも押さえていて、意外と楽しめる内容になっていた。もちろん意味不明なところはたくさんあるのですが。現在のムーア先生、もうコミックスとは手を切って小説を書いてるらしいけど、またちょっと映画を手掛けても良いんじゃないでしょうか。