2022年の映画トップ10

今年はそれなりに劇場に足を運んで映画を観た年だったかな。じゃあ傑作が多かったかというと必ずしもそうではないのだが。よってちょっと無理に10本選んだ感もあるが、以下は順不同で。

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム

映画そのものよりも、Youtubeとかにあがってる「海外の観客のリアクション」が面白い作品だった。過去のキャラクターの活躍に大声で狂乱する客とか、日本ではあまり見られない光景だからね。

『ウエスト・サイド・ストーリー』

スピルバーグ健在。冒頭のカメラワークから引き込まれる。ヤヌス・キンスキーの色褪せた撮影スタイルって好きじゃないのだけど、今回はそれが控えめで色調豊かだったのも良かった。

アフター・ヤン

コゴナダの作品は前作の方が好きだったけど、美しい映像で語られる物静かなアンドロイドの物語。

The Innocents

今年の1位を挙げるとしたらこれかな。大友克洋の「童夢」のパクリだろ、と言われればそれまでなのだが雰囲気の盛り上げ方が素晴らしい。

Mad God

グロシーンのいくつかは半年たった今でもトラウマです。

『GOOD LUCK TO YOU, LEO GRANDE』

自分には関係ないテーマとはいえ、老いた女性の性を真正面から扱った良作。エマ・トンプソンの演技が素晴らしい。

『神々の山頂』

これと「アルピニスト」は山好きにとって楽しめる映画だった。原作読んでなかったので比較せずに観れたのも楽しめた理由かな。

Weird: The Al Yankovic Story

これと「マッシブ・タレント」合わせ、メタなコメディが面白かった1年。内輪ネタにならない、絶妙なバランスを突いているのよな。

アバター:ウェイ・オブ・ウォーター

ストーリーよりも映像美。3Dで観ることで、なにか新しい映画の視聴形態を体験していることを実感させてくれたのは貴重だった。

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス

笑って笑って最後には泣かせてくれるという傑作。

自分で選んでおいて何だが支離滅裂だな…。あとは「ノースマン」「Old Henry」なども良かった。『RRR』は未見。世間で評判の良い「トップガン マーヴェリック」は、やはりこう自分がトム・クルーズを好きではないというバイアスがかかってまして…。「ザ・バットマン」「リコリス・ピザ」は完全にハズレ。ウェス・アンダーソンの作品はどんどん感情移入できにくくなっていく。

TVシリーズは「ピースメーカー」「PISTOL」などが秀逸。話数が多いものは自分がキャッチアップできないという理由もあるのだけどね。

あと今年の映画の傾向として、「年配の女性の恋愛(性愛)」の描写が多かったような?自分が年取ってそういうのに気づくようになっただけかもしれないが、 『LEO GRANDE』を筆頭に『エブリシング〜』や『Three Thousand Years of Longing』、あとまあ『X』もそうか。興行収入を稼げる映画スターの年齢層が上がってきているという記事もあったし、かつてハリウッドで言われていた、女性の役者は歳をとると役にありつけなくなる、という悪しきトレンドが変わってきているのかなと思いましたです。

「HELSTROM」鑑賞

米HULUのオリジナルシリーズでマーベル・コミックスの作品を原作にしたもの。基になったキャラクターのデイモン・ヘルストロムって70年代に「ゴーストライダー」のようなオカルトっぽいキャラクターの成功にあやかって考案されたもので、そのまんま「SON OF SATAN」というおどろおどろしい題名がつけられて登場したのだが、はっきり言って非常にマイナーなキャラクターなので、その名の通りサタンの息子らしい、ということ以外は俺もよく知りません。そもそもマーベル・ユニバースにサタンなんていたっけか?90年代初期にも彼を主人公にしたシリーズが短期間あって、駆け出しだった頃のウォーレン・エリスが敗戦処理のようなライターを務めていた覚えが。

そして彼にはサターナという妹がいるのだが、こちらになるとヘルストロム以上にマイナーなキャラクターなので全くよく知りません。彼と同様にサタンの娘(リリー・コリンズ?)ということくらい。

ただでさえマーベルはDCに比べてオカルト/魔法系のキャラクターの層が薄くて、地獄でいちばん偉そうなメフィストも人の結婚にちょっかい出してる程度なのだが、なんでこんなマイナーなキャラクターを映像化しようとしたのかはよくわかりません。いちおうTV-MAという大人向けのレーティングもついてエッジの効いた内容にしようとしたのだが、どうも話によるとマーベルの親会社であるディズニーがその方針を嫌がって、題名は「HELLSTROM」でなく一字とった「HELSTROM」に変更し、「サターナ」は「アナ」にしたうえで、NETFLIX作品などにはつけられた「MARVEL’S」という表記も題名には付けられていない。そんなの改変する意味あるのかね?と思うけど、子供向けディズニーにとっては重要なのでしょう。こうなると「ジョーカー」みたいなR15の劇場作品はマーベルから当面は出てこないだろうなあ。

それで肝心の作品の中身だが、デイモン・ヘルストロムは神秘的な能力を持った男性で、大学で教鞭をとりながらカソリック教会のエクソシズムに手を貸していたが、何かしら強大な脅威が迫りつつあることを知り、疎遠になっていた妹のアナに連絡を取る…といったもの。デイモンとアナの母親は悪魔に取り憑かれて精神病院に収容されているが、彼らの父親が悪魔だということは示唆されるだけで明言はされていない。あとは地下墓地の遺物から悪き存在が解放されたことも説明されるが、なんか話の展開が遅いのよこれ。数話観てもキャラクターの背景とかがなかなか明らかにされないし。

デイモンが世間に対して斜に構えたエクソシスト、という点では「コンスタンティン」に通じるところもあるが、あそこまでキャラクターは立っていない。物事があまり説明されないまま、おどろおどろしい展開が続くあたりは「アウトキャスト」にむしろ似ているかな。TVシリーズのホラー作品ってあまり優れたものが無いような気がするけど、これもあまり現地では評判が良くないみたい。

デイモン役はイギリス人のトム・オースティン。アナ役のシドニー・レモンってジャック・レモンの孫娘なのか。知った顔だと「ザ・ワイヤー」のロバート・ウィズダムが出演してます。主人公ふたりの母親をエリザベス・マーベルという、そのまんまな名前の役者が演じてるのにマーベル作品との関係が希薄で残念。

マーベルのTVシリーズがこれからDISNEY+に集約していくであろう過程での、微妙な立ち位置の作品、ということで良いのかな?大人向けの異色マーベル作品、という強みを出すこともできただろうにポテンシャルを生かせてないのが残念。

「カセットテープ・ダイアリーズ」鑑賞

自宅待機者用に米HBOがいろいろ番組を無料提供してまして、VPNをゴニョゴニョして鑑賞。日本では4月17日に公開予定だったが延期。

舞台は1987年。イギリスのルートンに住むパキスタン系移民のジャベッドは作家志望の少年だったが伝統を重んじる保守的な父親のもとで暮らし、町ではスキンヘッドに差別を受けるなど、さえない日々を送っていた。そんな彼の生活は、同じくパキスタン系の同級生からブルース・スプリングスティーンのカセットを聴かされたことで一変する。ザ・ボスの歌詞が自分の環境と重なることに感激した彼は、スプリングスティーンの素晴らしさを周囲にも伝えようとするのだった…というあらすじ。

当然ながらスプリングスティーンの楽曲が全編に使われていて、彼の音楽に力づけられたジャベッドがガールフレンドを見つけたり、文章を書いたり、親のプレッシャーに抵抗するような内容になっている。ミュージカルみたくみんなで合唱するシーンもあるけど、基本的にはストレートな青春映画かな。インド(パキスタン)系の男性が主人公の音楽映画ということでダニー・ボイルの「イエスタデイ」と比べる人もいるようだけど、あっちはもっとファンタジーっぽいし内容はかなり別物であった。

サルフラズ・マンズールという音楽ジャーナリストの自伝をもとにした話ということで、良くも悪くも地に足のついた話になっている。どこまで事実に基づいているのか分からないが、ジャベッドの日々の生活が描かれているだけで、全体的な話の盛り上がりがないんだよな。後半になってジャベッドは念願のニュージャージー参りを果たすものの、そこでザ・ボスによってコートニー・コックスよろしくコンサートでステージ上に引っ張り出される…というような展開も当然ありません。

監督は「ベッカムに恋して」のグリンダ・チャーダで、インド(パキスタン)系のティーンエイジャーの物語はお手のものですかね。キャストは有名どころだとヘイリー・アトウェル、ロブ・ブライドンあたりが出ている。

まあブルース・スプリングスティーンをどれだけ知ってるかでこの映画の楽しみ具合も変わってくるんじゃないでしょうか。劇中でも1987年の時点ですでに彼は時代遅れのロッカーとして扱われていて、ジャベッドのガールフレンドにも「あれロナルド・レーガンが聴く音楽でしょ」とか言われてるのは妙にリアルであった。ちなみに1987年の映画ながら、同年出たアルバム「トンネル・オブ・ラヴ」には全く言及が無いのは何故なんだろうとか、映画の原題が「BLINDED BY THE LIGHT」なのだが、この曲はマンフレッド・マンのバージョンの方が圧倒的に有名だよなあ…とかしがないことを考えながら観てました。

2018年の映画トップ10

今年は明確なベスト作品が1つ。あとの9つは順不同とする。

<今年のベスト>
「スパイダーマン:スパイダーバース」
みんなが頑張ってアメコミを実写化しているのを横目に、スコーンとホームランを打って、やはりアメコミの映像化ってアニメが向いているんじゃないかと思わせるような作品。キャラクターの設定とストーリーがよく練られていて、観る人を圧倒させる出来だった。スーパーヒーロー映画に限らず、これからの娯楽作品の流れを変えるかもしれない画期的作品。

(あとは順不同)

「Columbus」
監督デビュー作とは思えない落ち着きっぷりで、街の数々の美しい建造物をバックに、男女それぞれの生き様が描かれるのが印象的だった。ジョン・チョーは「search/サーチ」も良かったね。

「シェイプ・オブ・ウォーター」
しっとりとしたファンタジー。デルトロ監督がオスカーを手にして言った「ドアはここだ。蹴破ってこい」というスピーチは記憶によく残っている。

「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」
これ配信と劇場で2回観たのだが、再見することによって細かい演出(男は過去を見て左向きに座り、女は未来を見て右を向いている)にいろいろ気付くなど。話は説教くさいかもしれないけど、それをきちんと娯楽に昇華させているのよ。

「インクレディブル・ファミリー」
どうしても「スパイダーバース」に比べると劣って見えるものの、第1作の勢いをそのまま受け継いでましたね。今回はママさんとヴァイオレットという女性キャラが生き生きしていたと思う。

「デッドプール2」
前作よりもノリが良くなっていて大変面白い作品でした。スーパーヒーローものにはメタなギャグがよく似合う。次回以降はディズニー傘下になって毒が抜けたりしないか心配だが。

「レディ・プレイヤー1」
スピルバーグ御大が、あそこまでポップカルチャーネタを詰め込んでくれたら、もう満足するほかないでしょう。お腹いっぱい。

クレイジー・リッチ!」
個人的には「ブラック・パンサー」はさほど画期的だと思わなかったのだけど、あの映画にアフリカン・アメリカンたちが感じたカタルシスを、我々アジア人はこの映画に感じることができるんじゃないかな。客の多い映画館でゲラゲラ笑いながら観たのが楽しかった。

THEY SHALL NOT GROW OLD」
今年は殆どドキュメンタリーを観る機会がなかったのだが、そんななかで観たこれは非常に圧倒的な出来だった。こういうのもっと作ってください。

First Reformed」
そう話が展開するのか!と思いつつも、苦悩する主人公に共感せざるを得ない良作だった。

あとは「フロリダ・プロジェクト」を入れるか悩みました。「スパイダーバース」と「インクレディブル」に限らず、今年はアニメーション映画が面白かったな。「Teen Titans Go! to the Movies」もスーパーヒーロー作品にメタなギャグを入れてて非常に面白かったし、厳密には今年の映画じゃないけどスペインのアニメ「Birdboy: The Forgotten Children」も素晴らしかったです。

あとは道徳的なメッセージというか人生の教訓のようなものを、エンターテイメントのなかにしれっと混ぜ込ませるのが、ハリウッドは上手くなってきたなとよく思うようになった一年でした。

「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」はさすがにあからさますぎるが、ボビー・リッグスの挑発を受けてビリー・ジーンが女性のために奮起するさまとか良く描かれていたし、「ぼっち同士でも気が合うなら、それが家族なんだ」と「デッドプール2」が訴えるのも良かったな。個人的にハッとしたのは意外にも「ジュマンジ」で友人が主人公に「誰だって人生はライフが1つなんだよ…」と説くシーンでした。トランプ政権下において、ハッタリでもこうしてモラルを説く姿勢を見せるのがいまのハリウッドの役目なのかもしれない。はてさて来年はどうなることやら。

ケリー・マリー・トランの寄稿


「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」に出演したら、やれアジア人だの女性だのと壮絶なハラスメントにさらされ、SNSの投稿を全削除することになったケリー・マリー・トランが、ニューヨーク・タイムズに寄稿した文章をざっと訳してみた。原文はこちら。決して名文というわけではないが、広める価値はあると思ったので。

日本でも「スター・ウォーズにアジア人なんか出すな」という心ないことを言った連中がいたそうだが、そういう連中こそ読むべきものであろう。

ケリー・マリー・トラン:私はネットの嫌がらせに屈しません

編注:この夏、彼女はネット上の嫌がらせを受けて、インスタグラムの投稿を全て削除しました。これはその後の彼女の初の発言です。

問題は彼らの言葉ではなく、私がその言葉を信じ始めたことでした。

彼らの言葉は、女性として、有色人種として育ったことで、すでに私に教え込まれたことを保証するかのように思えたのです:私は脇の空間にいるべき存在で、彼らの人生や物語のマイナーな脇役としてのみ意義があると。

そしてその言葉は、私の奥深くに潜んでいた何かを目覚めさせました。私がとっくに抜け出せたと思っていた感覚です。9歳のころ、周りの子供たちがバカにするのでベトナム語を話すのを一切やめたことや、17歳のときに白人のボーイフレンドと彼の家族と食事をしたとき、完璧な英語で料理を注文したらウェイトレスが驚いて「交換留学生を連れてて可愛いわね!」と言われたときのような感覚です。

こうした言葉は、私が人生でずっと聞いてきたことを補強するものでした:私は”他人”であり、彼らと外見が異なるという理由だけで、彼らと一緒になることはできず、良い存在ではなかったと。そして今ならわかりますが、この気持ちはずっと恥でした。私を異なるものにしていたことへの恥、私がやってきた文化に対する恥などです。そして私にとって最も残念なのは、私がそれを全て感じていたことです。

一部の人々に対して、彼らはヒーローで救世主でマニフェスト・デスティニーの継承者であると教えていた社会は、私は彼らの物語の背景としてのみ存在し、彼らの爪の手入れをして、医療診断をして、彼らの恋の手助けをすればいいと私に教えてきました(訳注:いわゆるアジア系のステロタイプ)。そして最も深刻な被害は、彼らが私をいずれ救ってくれると思い込まされたことです。

長いあいだ、私はこれを信じていました。

私はこれらの言葉と物語を信じていました。一つの性別、一つの肌の色、一つの存在を持った、一種類の人間の力を誇示するために、社会が巧妙に作り出したものです。

これによって、私が生まれる前から規則が作られていると私は思うようになりました。この規則によって、私の両親は自分たちの本当の名前を棄て、周りが発音しやすいようにアメリカ風の名前(トニーとケイ)を名乗るようになりました。これは文化の消失であり、今でも私の心を痛めていることです。

そして認めたくはないのですが、私は自分自身を責めるようになりました。「もっと痩せてればよかったのに」とか「髪を伸ばすべきかしら」とか、そして最悪なこととして「アジア人でなければ良かったのに」と思うようになったのです。何ヶ月も私は自己嫌悪に陥り、悪いことばかりを考え、自分自身を引き裂き、自分の自信よりも彼らの言葉を信じるようになっていました。

そして、私はすべてがウソだったことに気づいたのです。

私の存在価値は、他の人の承認にかかっていると思い込まされていました。私の体は自分のものではなく、自分の意見には関係なしに、他人が美しいと見なしてくれれば美しいのだと信じこまされていたのです。私はこれを何度も言い聞かされてきました:メディアに、ハリウッドに、私の不安につけこんだ会社に。そもそも彼らが最初に作り出した虚しさを埋めるために、私は彼らの服や化粧品や靴を買うように仕向けられていたのです。

私はウソをつかれていました。みんなそうです。

これに気づき、私はまた別の恥を感じました。私自身に対しての恥ではなく、私が育ってきた世界への恥です。そしてこの世界が、皆と異なる人々をどう扱っているかに対しての恥です。

こういう育ちかたをしてきたのは私が最初ではありません。白人が支配する世界において、有色人種として育つのはこういうものです。男子に魅力的だと見なされることだけに恋愛の価値があると、女子たちに教え込む社会において女性でいることも。私はこういう世界で育ちましたが、これを後世に残したくはありません。

有色人種の子供たちが、白人になりたいと願いつつ思春期を過ごすようなことのない世界に私は暮らしたいです。女性がその外見や、行動や、その存在自体を監視されることのない世界に暮らしたいです。私が暮らしたいのは、あらゆる人種・宗教・社会的地位・性的指向・性同一性・能力などの人たちが、ただ人間として扱われる世界です。

これが私の住みたい世界であり、努力して作っていく世界です。

脚本や台本や戯曲を手に取るとき、私はこうしたことを常に考えます。私に与えられた機会が、希少なものであることは承知しています。私は少数の恵まれた人々の一員として、仕事において物語を伝えることができ、1つのことしか経験していなかった世界に対して物語を見せ、聴かせ、理解させることができるのです。これがどれだけ重要なことか分かっていますし、私は諦めません。

あなたは私のことをケリーとして知っているでしょう。

私は「スター・ウォーズ」で主役級を演じた、初の有色人種の女性です。

私は「ヴァニティ・フェア」誌の表紙を飾った、初のアジア系女性です。

私の本名はローンです。そして私はまだ始まったばかりです。